寒國の美 雪

丸山晩霞マルヤマバンカ(1867-1942) 作者一覧へ

丸山晩霞
『みづゑ』第三十三 P.4-6
明治41年2月3日

 余が故國にありしとき、二月の初旬頃と覺ゆ、梅は已に幽香を送りて澤の面の福壽草は黄金を點じぬ花香を封じこめたる優しき音信は南の友より來たれり、その頃吾寒國なる信濃にありては、四面皆白皚々たる雪を纒ふて寒威肌をつん裂き、南國の人々には想像だに及ばぬ程である、されど吾寒國の家庭に於ては、この季節程樂しきはなかるべしと思ふ、如何なる賤が茅屋に至るまで冬構ひは完全に調へ、爐邊暖かに一家團欒の快樂を恣にし、無邪氣なる物語りに雪の夜を暖かく更かす事もある、一ケ年に於ける寒國のパラダイスは冬にありて、自然の美又冬を俟ちて發揮さるゝのである。惟ふに暖國の美又夏時にありてその特長を認め得らるゝのであらふ。
 今余は寒國の美を説くに冬を以てす、先づ最初に雪の所感を述ぶ。清きものゝ譬にも雪月花といふて、雪程清淨なるものは他に無からんと思ふ、されば雪は古來品題に上り、詩人は歌ひ畫士は描く、畫として特筆すべきものはその清き色彩にある、雪は白なり、然も純白にして色にあらず、強て色といはば神の色ともいふ可きか、繪畫に現はるゝ雪の色は、光線に觸れて現はるゝ白の濁りたる色である。
 變化窮りなき自然界が、皓々たる白雪を纏ふと、所謂銀世界を呈す、これが光線によりて濃淡を現はす、その濃淡が即ち雲の色である。黎明の頃曙の空に配したる雪の山は、最初暗紫色、次に紫、漸く明なるに從つて紫を含みし暗靑色となる、それに反對する即ち東方に面する雪の山は、黎明の頃は紫色、次に紅勝ちの鮮紫、漸く明になりて鮮紅を呈し、黄又は橙紅をも現はし、時には黄緑色を呈する事もある。雪の蔭又は遠きものは靑なり、これに太陽の熱色黄赤紅の映じて、間色の紫橙緑を現はすのである、日光の映じて色彩を放つ美感は夕よりも朝、午後よりも午前の方がよい。眞晝にありて日光の直射するとき、その蔭又は樹木等の影がその上に投じたるときの色は紫色にして、陽部は黄を含む、陽部の黄味いよいよ強きときは蔭はいよいよ深紫色となる。曇天の雪は概ね靑く、蔭と遠きものは靑灰色時に紫を含む事あり。先づ大體に於て上述の如くなるも、畫の美觀は調子を得るにあり、如何なる色彩を用ゆるも調子だに誤らざれば、感じは充分に現はすことが出來る。
 しとしとと雪の降りつゝあるときの趣きは平穩のもので、濃霧の鎖した樣の感がある、一二丁の先にある家も森にも距離の現はれて、平素見馴れた場所も目新しく感じ、特種の趣が含まるゝのである。
 吹雪の折又は強烈なる嵐の吹き荒びて峰の雪、梢の雪、谷の雪等一齊に巻き上げる時は壯烈の感が起り、冬の荒神が猛り狂ふのではあるまいかと思はるゝ、これ等の趣はあまりに活動が烈しいから郊外にて寫生する事は出來ない、單にスケツチブツクに鉛筆にて描く位で、この間の趣きを充分に記憶して想像にて描くのである。雪の形態といふたら、何れも六といふ類で出來た花の樣なもので、畫としては説明圖の如く趣味が無い、模樣畫等には好材料である。畫としての雪の形態を説いたなら、大雪に於て見らるゝのである、自然界の凡てを埋めて、この下に八百屋ありといふ標札を建てる程になると、家も小山も森も樹も綿帽子着たらんやうになりて、それが皆美しい曲線にて出來て居る。それから鵝毛に似て飛で散亂するもの、綿をちぎつて抛つ如きもの、又は春の花の散るが如きものは繪に現はすべき形態である。
 大雪の降り積りたるあとの晴天程心地よきものは無い、日光は雪を蒸して暖かく、屋根の雪は融けて擔頭の點滴宛然夏の雨の降りしきる如く、日沒頃より寒威加はりて、これが俄に氷結して垂氷となり、長きものは地に着きて氷柱となり、頗る奇觀を呈するのである。雪の降りつゝある夜程靜なものは無い、月夜にありてこの間の眺めは趣味頗る深く、朧の月光は雪の白と相俟ちて煙るが如く霧の如く、深き灰色には少しく暖かき色含まれ、二三本の立木にも奥あるが如くに感じらるゝのである。雪の降り積りたる月明の夜も靜穩のものにて、皓々たる月光は皚々たる雪に映じてもの凄きまでに明らけく、壯美の感が起る。暗夜星光に於ける雪の美又壯美を極むるのである。
 裸樹又は針葉樹等に降りかゝりたる美は、綿着なる如き大雪よりも紛粉たる淡雪の方がよい、時ならぬ櫻花かと見違ふもこの景である、更に旭のこれに映じてきらめくの美は何ともいふ事が出來ない。
 散布したる如き淡雪の面に印したる足跡は、雪の文字雪の繪畫とも見る可く、二の字二の字の下駄の跡、梅の花かと思はるゝ猫の足跡は繪畫として好品題である。
 鵝毛の如き春の雪が紛粉舞ひ來たりて、道行く乙女の前髪にかゝるも又捨て難き品題である。
 小笠原に航する前夜認む

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