藝術小言

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畔川生
『みづゑ』第三十三
明治41年2月3日

 此所論は敢て嶄新なるものでもなければ悉く獨創の意見でもないがある一部の讀者の爲めにもと思ふて書てみた
■惡く云ふと人間は惰力の奴隷となるものである、人世幾多の勞苦と鬪ひ紛亂錯綜とした周圍の煩累に惰力の奴隷となつた反動として茲に慰安を求める、又ある程度までは人間は娯樂なるものがなくては生存することは出來ぬらしい、窮乏や苦鬪やの位置にあつて日々消耗しつゝある意氣を或る慰籍によつて復活しつゝある。
■何物かその慰安となるべきものぞ、或は宗教と云ひ或は道徳と云ふであらう曰く何曰く何と數へ立つたら限りはない、又墮落に近い或は墮落とも云ふべき慰安の得かたがたくさんあるがそれは人各々見地人格の相違高低によつて分るゝであらう。
■茲に藝術といふものがある、藝術は人間に慰安娯樂を與へる道具としてのみ有るものとは云へないが、この高い慰安娯樂を得る一種の手段としてある人は藝術なるものを尊重し或は之に携はるのである。現代の人として藝術の趣味位ひは解するものに是非ならなくてはならぬ。
■我々は自然といふ玄妙不可思議なる中に生を禀けて存在してゐる、我々も自然の子である、自然を尊重し自然を愛護すべきは當然のことである、有學の士も無學の輩と雖も决して此自然の庇護を蒙らなくては一日も生存することは出來ぬ、科學者といふものがある此自然なるものを多方面から研究して智識と利益とを得んとしつゝある、藝術家なるものがある藝術家もまた到底自然を離れて存すべきところのものでない、然し科學者と藝術家との目的と手段は絶對に懸隔したものである、つまり科學は抽象的である理義一方である概念と所屬と學系と總括との研究審理である、之に反して藝術は具象的に其生命を表はす處のものである趣味と慰藉である人間の享樂である世道人心の美化である、兩者の目的階段が如斯相違してゐるにも拘らず兩者其决して自然を度外親するこはと絶對に出來ぬ。
■藝術家は自然のあるものに接觸して自然の美に憧がるゝのみでは滿足してゐない、美術家は丹靑の技に愬へて繪畫なるものを作る、文學者は一種の記號を以て感想を述べる、或は音樂に彫刻に劇に藝術家のする仕事はたくさんある。
■更らに換言すると藝術のあるものは人類によつて作られたる第二の自然であるといふてよい、人間といふ高い貴いあるものゝ理想と感興とを發露して更らに自然を離れて茲に完美なるあるものを表し得んとするものである。
■自然は奥妙幽玄にして到底人類の企及するところでない、素より人間も自然の一部分である、故に吾々は自然を憧憬し自然を算重し之を愛惜するけれども是と同時に人間の手によつて作られたる第二の自然即藝術なるものを尊重愛惜するのである、藝術家をして云はしむると自然と藝術との中間にあるものが藝術家であるといふてよい、自然は父の如く藝術は母の如し此二者の間に生れたるものが藝術家といふ一子である。
■然し藝術は自然の模倣じやない、徹頭徹尾自然を模倣するのではそれは自然の反覆である、自然の反覆が藝術の目的であつたら藝術程つまらぬ物はない。
■或は模倣といふ語に語弊があるかもしれんが兎に角前述の通り自然を度外視することは勿論出來ぬ、けれども藝術は人間の理想的懇望の發揮であるといふことを忘れてはならぬ、藝術は高いものである。
■このうるはしい高い藝術に携はる處の趣味感想は如何に人の心裡に活動し、意識を支配し、是によつて高雅幽麗なる品性を養ひ得ることであらう、かゝる性情があつてこそ人間も高しとするのだ、此高雅なる趣味を一口に美的趣味といふ。
■美學の術語として美といふ語に就て云ふことがある、これは普通に云ふところの美はしいとは大ゐに違ふ、一日に云ふと美は客觀を亨受したる主觀と相俟つて初めて成立する處の意識である、即ちある一花卉の畫がある美くしい性質を存有してゐる、その性質の存有が主觀をしてよく美を感ぜしむるものそれが美である、此間に得たる想像を又美的假象と名けてある。
■此客觀と主觀との媒介をなすものに五官といふものがある、即ち視、聽、味、嗅、觸、である、此等の五官より得たる藝術を官能藝術といふ、此内視、聽の二者を高級官能に屬するものとし、味、嗅、觸の三者を低級官能に屬するものとする、彫塑繪畫、音樂、等皆此官能藝術である。
 今一つは五官の機能を借らずして空想力に想化して藝術の理想を得ることが出來るものがある、これを空想藝術といふ、抒情叙事文、叙情叙事詩、戯曲等一般文學の名稱範圍にあるもの等のそれ等を云ふ。
■今我々が此等美なる感想に幾多の要素がある、即優美、壯美、悲壯美、滑稽美、等である。
■人が美を亨受するには安靜の位置に居なくてはならぬことを承知してなくてはならぬ、假りに道に我々が猛獸に會ふたとする、すると此猛獸が如何に我々に危害を加へやうかと一見恐怖と戰慄とを禁ずることが出來ず、小膽なる人にあつては或は昏迷卒倒するかも知れん、然し此猛獸が一幅の畫幀中のものであつて豪宕雄渾の筆神動き魂飛の慨があらば、我々は此猛獸の威容儼然たる有樣に對し一種云ふ可らざる快感を覺える、これが即美である、所謂壯美である、春風駘蕩雲煙霞彩の裏濃艷なる春色の融々たるものに對する温和の美と、美と云ふ語の上からみれば何の變はることはない。
■亦美的嗜好なるものは必ずしも同等同樣でない、自己の見地經驗嗜好等によつて變化し移動し暢達するのである、故に昨日美としたるも今日否定し甲者の以て美とするものも乙者の以て美とせざるものもある。
■故に絶對的に美なるものに標準は立つることは出來ぬ、今甲者と乙者と共に一の物をみて共に美なりとするは即二者の美的標準が恰かも一致したのである、又大體の美不美は時に標準を立つることが出來るけれども到底明にこうと决定することは出來ぬ、亦决定する必要もない。
■故に美的標準は程度問題である、吾輩をして云はしむれば比較的智力ある最も經驗ある人の判斷を以て此標準を立てんとするのである、これより得たる標準を以て假りに首肯してゐなくてはなるまい。
■是によつて見ても藝術家なるものは積極的修養を積は勿論なれども須らく高い頭、高い人格によつて作らなくてはならぬことが分る、到底目や手の先の技能を以て立派な藝術的作品を作出することは六か敷い、藝術家にならうとする人は三省すべきことである。
■茲に不可思議なるあるものがある、天才といふものである、これは人力によつて如何ともすることが出來ぬ、吾人が生れながらにして禀け得たる處の先天的才能である、何に携はる人でも多少此の天才は有してゐるが、ある程度迄同等の修養を積んだものでも天才の多くを有して居るものは一方に卓絶したるあるものを作ることである、無論天才にのみ依頼して得たりとするは大に謬れるものであるけれども、特に藝術家には半面此天才の力をまたなくてはならぬ。
■我々は專問の藝術家としては飽くまでも天才を渇迎するものである。
■今藝術家にならんとするものは自身の天才も犧牲とする迄獻身的の勇氣を斯道の爲めに盡さなくてはならぬ、天才に際限はない、つまり自己の天才も恃みとすることは出來ぬ。
■然し天才なきものは藝術に携はる勿れとは决して云はぬ、必ずしも專門の技術家にならなくとも此程高い貴い趣味を解して高潔なる慰安を得やうとするは實に人格といふ上からみても大ゐに督勵すべきことである。
■或は人生の究竟が人格といふものにあるとしてみても藝術は全き人格に接觸する處の唯一の手段であると云ふことが出來やう。(追つて續出すべし)

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