松風

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

汀鴎
『みづゑ』第三十三 P.15-16
明治41年2月3日

▲一月三日、龍華寺へ往つた、風は強く吹いたが天氣は極めてよく、碧空に片雲なく、富嶽は裾野迄も鮮やかに現はれてゐた、アルフレツド、パルソンス氏のNOTE IN JAPANには此處から寫した富士の水彩畫がある。
 

三條千代子氏

▲これにつき思ひ出した話がある、今から凡そ十年程前こゝに遊びに來たとき、寺の老女にパルソン氏の事を聞いて見た、『アノ異人さんは清水から俥で來てこゝに半日ばかり居て富士山を寫して往ました、密柑を上げたら私し國にもあると申してゞした、是迄こゝへ來て富士山を寫した人は隨分澤山ありますが、あの異人のやうに上手な人は一人もありません、その後も幾人も見えましたが、皆あの異人よりは下手です、私し等毎日富士山を見てゐますが、ホントの富士山よりはアノ繪の方が立派なやうに思はれました』と。
▲よき繪は鑑識あり教育ある人に賞せらるゝと同時に、修養も趣味もなき山樵賤の女にも解られねばならぬ、この山寺の一老婦をして、五年後の今日迄も、其繪を忘れしめぬパルソンス氏の筆力は、尊敬すべきものであると、余は當時深く感じたのであつた。
 

鵜澤四丁氏

▲龍華寺は富士の名所であるが、麓は央ば以上蒲原邊の山に掩はれてゐるし、三保の半島も形がわるく、清水邊に見ゆる赤煉瓦の烟突も殺風景で、アタリがゴチヤゴチヤしてゐて面白くない。富士を見るにはこゝから一里先の駒越の萬象寺がよい。
▲故高山博士の墓標には、新しい名刺が二三葉挿んであつた。
▲一月五日、橫磯の波打際で、有渡山を遠景に亂礁を全景として寫生をしてゐた、近くに遊んでゐた子供達が澤山集まる、男の兒は先から見てゐた女の兒を突き倒して見るのによき位置を奪ひとる、女には生れたくないものだと思つた。『ヤーンマイなー』と一人が褒める、『上手だなー』と他の一人が雷同する、『デモホントの畫かきはモツトンマイぜ』と小さな聲で言ふものがある、他人が右といへば左といつて見たい人は何處にでも居るものである。
 

栗山清太郎氏

▲一月六日、興津川の傍の松原の中で愛鷹山の方を寫生した時、一人の紳士が久しく後に立つて見てゐた、そのゝち繪のことをいろいろきいて、さてつくづく羨ましそうな口調で『私も繪が畫けたら』といふた。
▲この紳士は、先頃から少しく身體の工合がわるく、この地に遊びに來てゐるので、知らぬ土地とて話相手もなく、持つて來た書物もよみ盡し、今は退屈で退屈で耐えられぬとの事である、余も『此人に繪が描けたら』と思はざるを得なかつた。
▲一月九日、朝陽館を出で清水の阜頭から三保迄船へ乘つた、御穗神社に一番近い船着場までとの約束で船は買切りである。親方は船頭を招んで砂の上に指で鳥居の形をかいて見せた、この船頭は聾である。
▲三保で寫生をして歸りに駒越の萬象寺へ寄つた、この寺には十年前に二ケ月程居たことがある、そのころ三宅君も一二週間こゝで寫生をした。此處は富士を見るに一番よい處である、清水邊からでは左の方が隱れるが此處からは蒲原の山も低く見えて、右も左も裾野を現はし形が甚だよい、鈴川岩淵邊では近過ぎるし、燒津川崎邊では遠過る此處は距離に於ても最もよい處である、龍華寺より久能山へゆく近道であるから、この邊に遊ぶものは是非立寄つて澁茶の御馳走になつたらよからう。
▲久し振だといふので終に寺に一泊することになつた、興津では朝な朝な一番鷄の聲に夢を破られ、清水では隣室の惡い慰みに終夜苦しめられたが、心から親切な待遇と山寺の靜閑とは、此夜をして安らけく眠らしめた
(終)

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