ピーター、デ、ウイント[三]

青人
『みづゑ』第三十三
明治41年2月3日

 殆ど一年の後、即ち一八〇六年に、ジエー、アール、スミスと徒第の身分を解きぬ。ヒルトンは如何なる關係なりしや知るを得ざれども、デ、ウイントは單に約定の解除に過きざりき。約定の期限に達してより、猶向ふ四年間師に仕ふることゝなりつゝありしかば、スミスは自が爲めに油繪の風景畫十八枚を描かんには、法律上の權利を放棄すべしと云ことを言出ぬ。十八枚の畫は一年九枚の割合にて二年を要することなれば、最初の十二ヶ月に次の如き大いさの繪畫九枚を仕上げぬ。十一吋の九吋、六枚、一呎三吋半の一呎半、二枚、一呎三吋半の一呎半吋、一枚となりき。こゝにてデ、ウイントはスミスの條件を承諾しぬ。畫も正しく得出來きたれば師も心よくうけがひぬ。スミスがデ、ウイントの人爲りを知れることこれにても明白なりける。
 

中澤弘光氏

 

岡野榮氏

 こゝに挿話を掲げしは二箇の理由あり、話の簡短なること其一なり。又デウイントが油繪畫家となりし楷梯を知るに便なる其二なり。此の事實を世人往々にして忘れつゝあるなり。デ、ウイントが油繪を初めたるは、其晩年なりしてふことの永く假定せられければ、此誤認より氏が若年の筆を氏の作品として承認せられざりき。デ、ウイントが若年の頃に油繪を停めたる理由は恐らく三あるべし。第一は水彩畫を賣るは尚早かりしなるべく、第二は氏か仕事を爲すことの冷淡にて、宛ら事務を執るの風ありしこと、第三は友人のヒルトンが高尚なる美術を好み、アカデミツクの榮譽を得んがために苦みて、可なりの悲境に陷入りしを實見し確信したりければなり。

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