唖倶樂會

晴帆生
『みづゑ』第三十三 P.19-20
明治41年2月3日

 此間海老名牧師が當地に於ての演説の中に、北越の人は冬の數ヶ月間は熊的生活をするもの蛇と極言されたが、それかあらぬか古來北越人士の一般的趣味は兎角座敷にのみ限られたかの樣‥‥隨て唯珍しい什器を集めて自ら樂むとか、美事なる書畫類を展觀して人に誇るといふ樣の事が專ら行はれて居たのが、今以て盛である事は骨董屋が在の旦那廻りを喜ぶ事や、ヘッポコ畫工が越後路へ入てから樂になつたと述懷するのでも大方推想し得らるゝ事と思ふのです、それで誰々の椿山とか某々の大雅堂とかといふのが著しく勢力を彼等の間に振るつて居るので、唯もう數の多きを得たりとし名のよいのを以つて誇とするといふ風、それで數さへ多ければよいか、名さへよければ宜いかといへば強ちにそうでもない、特に文人畫風言換ふれば漢畫の南宗といふ風が專ら推獎されて居つた、それに續ての北宗も上では雪舟とか元信とか下では文晁邊が最も珍重されて居つた、現に多くの藏幅家の門を叩けば示さるるもの殆ど夫等のものに限るといつてもよい位、夫は明治に入つてから文人畫が一と仕切り非常に流行した事の時勢も加つてありませうが、何分昔から其方の盛な事は古來當地方出の名家と擧げられたる人達が殆ど夫等の派に限られて居つたのでも知る事が出來ませう、如此有樣から自然に氣韻といふ事を第一義として、極端に之にかぶれて、其他の事は深く顧みないといふ樣の状態で、煮ヌキ饂飩を列べた樣の皺とかツク子芋を連ねた如き皺でなければ高尚なる風韻は、求められないものの樣に思込まれて居つたのです、夫ですから、比較的形態や色彩などの方面にも力を入れた所の圓山其他の流派の者は深く味ふに足らぬ位に思はれて卑められて居つたといふ譯、まして好尚の頗る異つた洋畫を見てフムよいなあ寫眞かといつたきりで再び顧みない樣なのも無理はないのです、併ながら時勢の潮流今何時迄もかくあるを許さないのは自明の理で、交通がよく開けてから此方彼等の好尚も追々變て來たのです、一方漢畫がかく持て囃さるゝと共に新美術(美術院流風をかくいゐ得べくんば)なども歡迎さるゝに至つたといふ風に‥‥夫で洋畫の方でも未だ微々たるものですが、此潮流に順ふて少宛乍ら發展はして居ります、所に依つては五六の同勢で研究して居るのをポツポツ見受くるのですが、當地には吾々如き少部分を除ては之を遣つてる人を見受けません、唯中學と師範の生徒とが各會を立てゝ斯道を鼓吹してるのみです、中學の方では其立雲會年々の展覽會に幾多の其校出身の美術學生が大なる後援を與へ美しき光彩を添えて居りますが、寫生も中々遣つて居つて隨分元氣がある、師範のは唖倶樂會といつて近來は目つ切り盛になつて在校生のみで大に振て居る、元來此會は此邊の人がワツトマン紙木炭紙はおろか水彩繪具さへ知らなかッた六七年前既に呱々の聲を擧げたもので、一盛一衰はあつたが兎に角當地で斯道の先鞭をつけて各所の教育展覽會に其抱負を示して居つたのです、夫で年々同じ樣の體裁の臨畫のみを繰返すといふ風であつたのが、昨年頃からは餘程變つて著しく寫生風に傾いて來て居る、時世とはいへ之は眞に喜しい現象で一層此機運を助成しもたいのです、此間其展覽會を遣つたのですが中々盛況で相應に滿足の結果を得たと思ふのです、墨繪も中々獎勵したのですが、先づ六七十點中にも數葉の全紙への鉛筆畫及び多くの木炭畫などは大に振つて居たです、水彩畫は特に多かつたので、三百余點中にて中々見るべきものも、少くはなかつたのです、遣口は一寸天才的學生が天才に任せてなぐり付けたといふ樣に見えたのも少くはなかつたけれども、臨畫の方は概して沈着して稍活氣のある、色を例に依てアッサリした使ひ振りであるから神秘的深甚なる感想を興へないが、一寸誰にても好かれさうで心持のよささうに見受けらるゝが、ともすると深みを缺いた薄いものになるのは殊に惜しと思ふたのです、其他多くの平常成績は大に發育的價値を發揮した譯で、心ある人の着目する所となつたのです、又手工科製作品の併列は一寸目先の變れる所から一ト際人目を喜ばせました、何分地は高燥なり日は兩日に渉て好晴と來て居るのですから、來觀者甚多く近來にない盛會であつて豫想外の成功でした、僅の事ですが運動會の色々の運動を模樣化したのなどは著しく小學生徒等の興味を呼起して實に面白い事でした。
 兎に角平常他校に比しては時間も多く又年中色々の會に攻め立てられて居るに係はらず如此成功を博し得た事は大に多とすべき事です、殊に學校の性質上始中終教育に結び付くるといふ事には出來得る丈け注意を拂ふたのでした、且つ又此等の機會を利用して出來得る丈け生徒の自發的觀念を養はしむるといふ寸法で、殆ど會の始終を彼等をして處置せしめたのてすが、至極敏活に申分なく處置されて實に結構の事でした。要之此度の會も慥に良き影響を一般に與へ得たと思はるゝのですから、之が追々發展して一般の好尚に結び付くといふ事も想像し得らるるので、それが近くはないかも知れませんが又遠い將來の事でもなからふと信ずるのです。(四十年十二月末稿)

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