小島烏水『甲斐山岳の形態美』の一節
『みづゑ』第三十四
明治41年3月3日
山の非下界的、非人間的に見ゆるは、單に其高距と形態とのみに因るにあらず、一はその秘色にも歸し得べし、高きが故に雪を被りて白なり、白は本源の明、何の染習をも受けず、故に潔し、故に駿河の富士も、加賀の白山も、『望之如太白』といはれたる台灣の玉山(新高山)もアルプスの白山も、西藏の雪山も、皆崇拜せらる、高潔にして神性ありと思惟せらるればなり、その雪なくして「白山」なる能はざるときも猶「靑山」なるを失はず、靑色か陰性、もしくは寒性のものにして、沈默の氣象ある、近づかむよりも避けむとす、高山を遠望すれば、彼は我を遠ざからむとするも、我は何となく彼に吸引せらる、その靑に一分の暖色なる紅を加ふれば、紫となる、文人に山紫水明の語あり、紫の輝くところ、人心に安住ありと雖も、竟に是れ人間の現在色にあらず、必ずしも紫衣の僧や、紫雲たなびくといふ類を連想するにあらずと難も白の神仙的なるが如く、の青隱逸的なるが如く、紫もまた出世間的也、しかし高て山は一個にして、皆之を具有せり。(小島烏水氏『甲斐山岳の形態美』の一節)