寄書 われ等の新年會

木炭の屑
『みづゑ』第三十四
明治41年3月3日

 日本水彩畫會研究所新年會は一月二十六日の午後一時から開かれた、僕の會場へ駈けつけたのは丁度一時半であつた、階下の研究室には既に河合先生の批評が始まつてゐる。モー四五十人も集まつてゐて人いきれとストーヴの熱とで、急いで來た身には中々暑い。一寸見たところ繪は四五十枚壁に貼られてある、今月は繪はいつもよりは少ないが、實質が非常に進歩してゐて何れも眞面目な研究畫ばかりだと、先生達は大に喜んでゐられる。多いときは百五六十枚も出るのだから、成程數は少ないが、僕のやうなウブな目にも皆んな骨折つた繪ばかりだと思つた。先月は丸山先生の飯能地方のスケツチを澤山拜見したが、今月は大下先生の東海道の海の景色圖がある、先生方の出品は是非毎月何枚か願ひたい、これは僕ばかりの希望ではあるまい。
 親切な批評が濟んだ。來賓の方もチラホラ見えた。やがて一同は二階に席を移した、二階は隨分廣いのだが、人が多いので少しく窮屈を覺えた、餅菓子の包み一ツ茶呑茶椀一つ宛銘々の前に置かれた、大土瓶から茶をついて廻る委員の方の勞は多しとせねばならぬ、委員のうちから一人立つて挨拶があつた、今日は新年會だから精養軒の洋理に明治屋のシヤンペンを用意する筈であつたが、飲食を主とするよりも樂しく遊ぶといふ方がよいとのことで、一切そんなものは見合せて、たゞ茶菓と夕飯の用意だけにしたとの事だ、僕も大賛成だ、醉つて喧嘩でも始めては大變だ、それよりも遊ぶことに限る、今日は大に遊ふべしである。大橋先生の御挨拶があつた、先生は鎌倉からわざわざ來られたとのことだ、次て來賓の戸張先生が米國に居られた時の御話があつた、それは吾々に極めて有益な御話であつた、先生がアメリカに往かれて、波を專門のリチヤードソンといふ先生の家に四年ばかり居られた、この先生は毎日暇さへあれば寫生に出られて、夜分などは書物の挿繪を畫かれてゐた、先生の常に曰はるゝには、繪を研究しやうといふには毎日是非筆を持たねばいけぬ、晝間畫く時間がなかつたら夜分鉛筆畫でもかゝねはいけぬ、それから繪を習ふには、初めから大きなものを掴まずに、一部分を立派に描く事が必要だそれも出來るだけ正直に寫眞のやうに描くがよい、その修業さへ積めば後には大きな感じの繪をかく事も自在だ、それから修業中に酒を飲むやうた不眞面目の事ではいけぬ、專心美術に心を傾けなくてはいけぬと始終先生は云はれたので、戸張先生も元は酒が好きであつたのだが斷然止めてしまつたそうである、そして新年會といふとドコでも酒をのんで大騒ぎをやらかすものだが此會がそのやうな事がなく、眞面目に樂しい集會であるのを大に喜ばれた。戸張先生は猶語をついで、昔しの日本の挿繪畫家にも隨分酒飲みがある、北齋の如きは頗る酒好きで、それにブシヨーであつた、物を買つて煮たといふ事がない、いつも煮たものを買つて來て食べた後は竹の皮の机の下へ投込んで置く、他から生物を貰へば近處の人にやつて仕舞ふといふやうな人だ、こんな人の眞似は修業中は斷じて爲てはいけぬといふて話を終られた。
 いよいよ餘興だ、始めに動物園があつた、次には髪の毛の長い人が淺黄の上下つけて手品をした、勿論失敗と成功と相半してゐる、トヽデタリカヽデタリーがある、一同大笑ひだ、福引が始まる、隨分奇抜なのがあつたか今は忘れてしまつた。
 日がくれて來たので下の室へ移つた、瓦斯の光の下にちらしずしの晩餐をやつた、何處からとなく大きな密柑が降つて來た、それを拾ふので一時は大騒ぎをやつた。
 是から先生方の方にはカルタがある、吾々の方には國旗合せ家族合せがある、アンマさんアンマさんが始まる、オゼヾはドコダが始まる、トンダトンダが始まる、遠方だからといふて歸る人もある、九時頃には二十人ばかりになつた、僕もこの時御免を蒙つたが、そのあとで又二時間ばかり面白い遊びがあつたそうだ、吾等の新年會は、如斯實に無邪氣に樂しく終つた、萬歳!

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