寄書 カトウヰク
晩雨生
『みづゑ』第三十四
明治41年3月3日
二月二日(奮正月元日)、日曜、曇
(前略)、一里ほど歩いて、和歌の浦と、小山を背合せにした大浦といふ入江へ來た、其所には、熊野行の漁船が何十艘となく、とまッて居て、それには皆「大漁」と白く抜いたヴアミリオン或はオルトラマリンの旗を建てゝある。それがユラユラと搖く波にうつッて居る。而も其赤いのが。
自分は暫く眺めて居たが、描けそうもない又描くべき景色ではない、船は何十艘もある、旗は何十流もある、而もうつッて、居る或は反射して居る形は素敵に立派だ、併し惜い哉變化がない。描いては面白くない見るべき景色だ。自分は今までも、こんな景色に會うた事がある。見るべくして、描くべからざる景色だ。甞て海抜四千余尺の金剛山頂で二千五百年前、神武天皇が賊と戰はれた大和平原を見下ろして、かの山陽の詩の「合圍百萬兵、陣雲繞麓黒、臣豈不自惜、受託由面勅、灑泣誓吾旅、爲君鏖鬼★、」といふ句を心に浮べて、建武の昔に思を走らした時、言ひ知れぬ懷古の情に打たれつゝ其崇高な景色に見入ッた。それは正に見るべくして、描くべからざるの景色であッた。
そこで自分は、ずツと其船の群からはなれて岸に繋がれてあツた、一艘の船を寫生した。寫生したといへば、唯四字でいひ盡してしまうが、それは午前九時から午後一時まで、四時間、即ち一字一時間に相當する其間霙まぢりの北風を眞正面に吹きつけられては、何回凍りきツた無感覺になツた指尖に、息を吹きかけたか知れない、それでも手は無意識?に動いて來たと見える。
正月の事だから、見物人も隨分あッた。屠蘇機嫌の漁夫連が、十人も寄ッて來たのだからたまらない、而も自分の周圍で一場の畫論が持ち上ツたには驚いた。併し彼等は流石專問家である。其批評は責に適切た。自分はヒヤクとする樣な事もあツた。應擧じやないが、彼等によツて、多くの船に就ての智識を得た尚今一つ得たのは、否援けられたのは、一人の漁夫曰く「お前さん何時まで寫しなはる」余曰く「さア二時頃までかかるでせう、」「さうかえ、それでも午になると潮が引きますよ、」自分は唖然たらざるを得なかツた。
若し此言を聞かなかツたら、かの面白い帆柱や、網のうつツて居る影を、あたら月のために奪ひ去られるのだッた。
感謝を以ツて彼等を眺めた自分の眼は、彼等の凹凸多き剛然たる顔面筋肉の内に、隱然として潜んで居る朴訥な親切や、優しみを、認める事が出來た。「南風」ではないが、自分も何時かは、この恩ある親切な、漁夫を繪にして見やうと思うた。
自分は此入江へ來た時から、畫を描き終るまで。かのヂヨーヂ、エツチ、バウトンの荷蘭寫生旅行中の一節、丁抹の力トウヰクを想像して、何だか此所の樣な景色じやないか知ら、と思うた。(寫生日記の一節)