寄書 我水彩畫の歴史(上)
矢ケ崎天民
『みづゑ』第三十四
明治41年3月3日
いつであつたか、四辻の或人家の横の板塀ここはいつも廣告貼場になつて居るので、糊のついたところだけはげずに紙が殘つて長方形の横のや縱のや、赤いのや青いのやいろいろ輪廓だけ死骸を止めて居る、其中に今貼られたばかりと思はれる大きな廣告には、筆太に宗教大演説會、辯士誰々、時間何々、會場何々教會とある。暇ではあつたし、二つには其辯士が有名なので出掛けていつたことがあつた。
金、名譽、戀、怒、等の相競ふて居る境に行く道は廣くして平坦であるが、信仰に入る道は狹くして嶮しい、それで信仰に入るには、懺悔だとか信念とかえらくむづかしいことを、いくつか經なければならんなどと聞いた樣に覺へてゐる、其演説を聞いて成程なアとは思つたがその爲精神上の動機となつてクリスチヤンになつたでなし、別に變りなく翌日もやはりパンを得るに床からぬけだした。
ところが偶然水彩畫を始めようと云ふのでいよいよ其門にはいつて見ると、これは宗教などと異つていよいよ信仰にはいつてからの苦行が大變なものだ、實に自分にとつては釋迦が雪山で難業苦行をしたよりも以上だつた、と云ふとそんなに苦しいのなら畫家にはなるまいなどとふるへる人があるとこまる。
變手古なものが出來ておかしくて堪らないのだ。
先づ彩料を買ふ前に二つの關門を通過したそれはなんだと言ふと、
第一に自分のゼニアスを疑つた、
はたして自分に繪がかけるかどうかと言ふことだ、いろいろ總合してみた、生徒時代のとき、あの繪を描いたら七十點であつたけれど次の繪は九十點であつた、校庭の立樹を寫生したときは乙であつたが、花瓶を寫生したときは甲であつた、などと思ひ出して見て、これは天才とまでは行かなくても普通の人位にはかけるだろうと云ふので第一關門は無事通過。
第二には水彩畫とはどうして描くものだかどんな繪具でやるのか、曾て教はつた事もなければ聞いたこともないので、此處で一寸躇躇した、けれども早通本屋へ行つて水彩畫について何か書いた本はないかと言ふと、出してくれたのが大下先生のかかれた水彩畫階梯と言ふのだ、其晩はそれと首引をした。
翌日はまた早速繪具と繪葉書臺紙を二十枚ほどとぢてあるのとを買つて來た。
もうこれで天下一品と言ふ名作が出來るつもりだ。(續出)