水(下)(ラスキン氏近世畫家の一節抄譯)

霧鴎生
『みづゑ』第三十五 P.7-11
明治41年4月3日

 水面に波紋が起るときは、その漣の一方は天色を映し、他の一方は對岸の色を映す、漣收まりて水面平かになれば、何處も一樣に空のみをうつす。されば遠方の穩かな水面に岸の高い所が映つて居る時に波紋が起きると、波の腹が空を映すから、それが輝く線として見えて、映つて居る岸の形を毀つて仕舞ふ。
 波の向ふ側の波腹を見得る角度で、波を見ると、波に映つる凡ての像か伸長して見える、そして其が錯雜した鉛直線に見える、しかし、かく伸長した映像は非常に強く輝いたものでなくては明瞭に見ることは出來ない。
 即ち太陽とか月とか又は河岸の燈火の如き光りに就いてなら認められるから、太陽、月、燈火等はもとの形の樣に映らずに、きらきらする光の長い流として見られる。
 漣波の兩波腹を見ることの出來る時は、其の水面は垂直線を能く映す力がある、それは、兩方の波腹に垂直線の一部分つゞを映したのが波の峯で相合して見えるからである、されど傾斜した線が映つたのてば前程に良くはいかぬ、尚一層斜になつた塲合、即ち水平線が映つた時には其の線が全く認められぬ、是は前に述べたヴエニス紀行の中で舷側の條線が水に映らなかつた理由となるのである。
 水面より遠ざかりて傾斜する物體は其度によりて水面への映像が短かくなつたり又は映らなくなる、非常に高い所から眺めか湖水が岸を映さないで單に空のみを反射して丁度金屬板の樣に見えるのは此理由である、
 漣波のある水面は時々、輕微な偏向を起して眞直な塔も波の斜面の上に映じては少し傾いて見える、大波などでは偏向の度が波腹の傾斜の度に比例する。
 水の種々の實際の形を絶えず熱心に觀察して、其場所、其瞬間にスケツチした材料に滿ちたる寫生帖は該博な光學上の理論よりも畫家にとりては遙かに有益である。
 水の深みと透明とを或る度まで描き現はすは畫家の經驗で出來るが水面の趣を充分に現はすは困難なものであるが、この困難は、肝要な眼の燒點を變更して諸方からの光線を受けるためである。
 天氣晴朗の日に池に行きて浮萍が餘り茂らずに彼方此方に一葉位つゝ浮いてゐる渚に立つて見れば、池面に空の反射も見られるし又浮萍も見られる、併し如何に骨折つても其兩者を同時に見ることは出來ない、先づ空の映つれのを見ると、その時は眼球の燒點は遠距離のものを見るに適當するから水中遙かに遠くの空を、眺めて居る如く感ずる、浮萍は今見て居る水面にあるのだが、唯不分明な物が浮いて居るとかして見えない、そして色なども分からない。
 併し思ひかへて浮草を見ると眼が一寸變に感じて今度は池面から來る近い光線を受くるに適當になるから浮萍の葉が明瞭に活々した緑色まで見えるが草の浮かんである水は唯黒く見える計りである、
 故に近くの水面に比較的遠方の物體の映像を見て居るときは水面の事には注意し難いといふ事がわかる。
 吾人は通常は水面を見るときの燒點を用ひるから反射した物體の像をば不分明な、混雜した色彩や線の集りとして見るのだけれど、見やうと思へば明確に其映像を見ることが出來る、
 今水田を段々と見回はして居ると別段に注意して見樣と思はずとも、水面に突き出て居る水草や棒切などは明かに見られる、これは水面と水草等を見る眼の燒點が殆ど同じてあるからである。
 されば、普通水を描くには水面近くの物をば明確に描き現はし遠方のもの即ち高い木や雲などの映像をば色彩は判然としても宜しいが形は朦朧と描くべきである。
 海上を見渡たすと艦體の映像をは明白に認め得る、これは遠方の水に映つて居るからだ、俄し檣や帆は其の映像の下部になる程混亂して見える
 ターナーは海岸からは海の研究をしなかつた、陸から見ては自然のままでも波の巻き折るゝ形が千遍一律に見える、沖の方の波の大さは分らないで眼に近い方の波は順に後を追ふてついて來て岸へ靜に打ち寄せて同線上に同じ形式に碎ける事が何の波も同樣である。
 されど海岸から二十碼でも離れた海上から見れば前と全く違つた印象を受ける、自分の周圍にある波が大きく見える、そして岸に打ち寄する波は背面を現はして疾過と力量とを示す長い彎曲した雄大な廣い種々の線を示す。
 數日間引つゝいた暴風の後は海水は泡立つといふよりも寧ろ醗酵した物塊の集りの樣である、それが波から波へ長くつながるが波が碎ける時は花飾をかけた樣に波頭から垂下する、そして風に吹かれても消滅せずに朦々として空氣を雪降の樣に濃厚にする、そして雪片とも見ゆるは一尺も二尺もある水沫である、かく半分は水半分は空氣の波が水烟朦々として岸邊をさして怒號し行く有樣は壯觀である、
 破浪に常に見る泡沫に二種ある一は乳酪の樣に凝つた濃い塊で浪が崩れる瞬間に見られるし、又其の浪が海岸に走つて行く時にも見られる、後一つは薄い白い上被の樣なので卵形に劈けて波全面を大理石の如くに見せるそして底をひきつる白い長い流となツて寄せ來る浪と平な渚でくツつくのである。
 ターナーの描いた水の濶さを示した作品の中で『カトリン湖』は湖面遠くを輕風が渡つてゐるので向岸近くには映れるものも無いが湖面の半分程は風に當らないからペンペヌ山の峯や小嶼の影が倒に落ちて居る圖である、『デルウイントウオーター湖』は湖面に長い動搖があつても岸の暗い樹の倒影を映して居るが小舟が漕き行く波紋では其の樹影も消えしまふ光景を描いたので『ロモンド湖』は近い小舟の舷條は水平だから影が光に映らないが舳にある條線は垂直だから本物よりも三倍も長い影を水面に落して居る、向ふの島もこんな風に倒影を投げて居るが遠くの水面は空の反射なる灰色の光を見るばかりで丘と丘との間ではこれが白い野原の樣に見える、此の光景の外に湖心に閃光が見える樣を描いた、これは水の動く爲めに起つた現象である。
 ターナーの描いた遠方を流るゝ河の畫を見て殊に注意を要するは水面に映つる岸の影の多少によりて畫者の位置が水面よりどの位高い所にあるかが表現さるゝ事である。
 河水と水平の位置に居れば河面一體に高い岸の影で暗くされる、位置を高くすれば河岸の影は見えないで丘陵の影が見えるばかり、故にターナーは廣河面は空を映つし只懸崖の直下にのみ暗い細い一條の流を描いた事がある、瑞西へ行つてからは湖水の廣々した光景を描いた許りでなく靄と水面との相合した結果を描いた。
 『俯瞰したルセルン湖』の二三の畫は山岳の頂が下は水に上は雲に融合した樣を表はし『コンスタンス湖』のは夕暮の大湖を描いたのだが迚も水とは思はれぬ、黄昏の薄い光に低い白い靄が遙か向へ一里も二里も水面を被ふて居る景である。『コルドー』にての一畫は落陽の時に夕立雲の雲間からツーグ湖を見た處で湖面一體が火炎の樣で山の一角がそれに對して惡魔の如く聳え居る『ツーリツヒ』のは月光白く流れたる河水の蒼波の一去一來を描き、ツーグ湖の二枚の紫色調の日沒の繪は反對色を使はずに褐色に依りて反對にされた紅色、紫色の大量を用ひて光輝を表出したので名高い、一八四五年に描き上げたルセルン湖上から市街を眺めた畫は曉の空の緑色を浸した水面の趣が他に比類なしといはれてゐる。
 餘り澤山でない水か凹所の多い岩床の上を流れ行く時は彼所此所に溜まる氣味があるから流れ行く速力をいつも繼續することは出來ないで流れて來ては凹所に入りて憩み後からの水と一所になつてやかで又勢よく流れ出す、流れ行く途中に岩石と打つかると沸立つ樣な泡を立て二つに分かれて岩石をまはりて流れる、そして段のある時は小跳して流下して音をたてる。
 水底が緩かな傾斜で凹みも餘り多くないときは水は止まつて居ない、また水が増して居るときは少し位の凹所では溜つて居るのに不充分である、溜まつて居樣としても後から來た水に押し出されて仕まふ、こんな多量の水が岩石等に遇ふときは前の樣に兩方にわかれないでそれを跳び越ること竸馬の馬の樣で圓塔の屋根の樣に岩石を被ふてしまふ。
 水が凹所に流れ込むときも穴一杯には入らないで一方の斜面から流れ込んで他の斜面から流れ出すのが大波の上を浮沈する舟に似てゐる。
 急流では其の快速力の爲めに水面に平行線が出來るが、水底が流水の線と一致しない所があると浪立つ、急流の浪は流れ來た方に向い、海水のは押し寄せて行く方に出來る。
 海の波は縁の鋭い凸形の運動である、急流のは凹形から凸形に變ずる面白い曲線から出來て居る。(終り)

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