ピーター、デ、ウイント[四]

青人
『みづゑ』第三十五
明治41年4月3日

 一八〇六年の五月に二人はスミスの許を放れて、獨立に仕事を成すことゝなりぬ。二人は宿所を定むる以前に、リンコルンを訪問しぬ。こゝにはデ、ウイントにヒルトンの妹にて、ハリエツトてふ情人ありければなり。盖し情人は年十五なり、リンコルンに於てデ、ウイントはスミスの仕事にて繪畫少詐を描きぬ。それより背嚢を肩にして、徒歩にて、スタフオードシヤイアへ寫生旅行を試みぬ。ヒルトンはストーンまで氏に從ひつ、こゝに肖像畫を描きて、可なりの收入ありき。此年の秋二人共に倫敦に歸りぬ。ゴールデン、スコーヤのブローストリトに一室を持ちぬ。此室は幸福に贅澤に暮らせるジヨン、ヴアーレーの室に接近してありき。ヴアーレーは好教師にて常に熱心を以てデ、ウイントを遇しぬ。其後早くも彼等に向ひて幸運再び微笑を湛えぬ。其故はデ、ウイントはギルチン、ターナー兩氏の師たり、保護者たりし有名なるドクトル、モンローに迎へられければなり。モンローの夜學はアデルフイテレースの歴史的の家にて今日迄續きて開かれつゝあるなり。生徒に蛎の夕食を饗應すると、小品畫に半クラオンを與ふるは何れが良博士なるや判斷に苦しむも、氏の課目は未曾有の佳良なるものにて、デ、ウイントもこれに依て得る處少々ならざりき。氏は數多の美麗なる繪畫を作製する友人を得き。就中ギルチンの作品を愛玩し措かざりき。されば氏は直にその感化を受けぬ。
 

カツサン氏鉛筆臨本の内

 されど同時に修學の完成に勤めける間にデ、ウイントをヒルトンの如く生活の爲めに繪畫を描きぬ、此の自己の繪畫を賣りしことに關しては、ラフアイル、スミスの引續ける友誼上のお陰を蒙りしこと多かりしとぞ。二人共に勞苦は甚しかりしこと論なけれども、一室共棲にて互に勉強し合ひりしかば、互に費用も出合ひつ、一人の病氣の折には一人がこれに當るてふ有樣にて。ヒルトンはスミスの許を去りてよリローヤル、アカデミー、スクールに從事しぬ。デ、ヴイントもこれに傚はんと思立ちて、遂に一八〇九年三月八日に希望を成就せしかども、其間二ヶ年遲なりき。こゝにて人物畫科を初めけるなり。
 一八〇七年に醫師デ、ウイントは寡帰と五人の子を殘して死しぬ。長男が父の遺業と財産とを相續しぬ。父は不注意に先見なき人なりしかば、妻子に對する準備も甚だ少なかりしなりき。此時にピーターは僅に二十三歳、長男の堪え能はざりし責任を双肩に荷ふて、二人の妹と弟のトーマスを保助してありき。トーマスは實に十七歳の醫學生なりき。トーマスがアンキヤスターにて開業するに至るまでピーターが家族を養ひけるなり。其後母は一八三四年に年八十にて死去りぬ。
 デ、ウイントは父の死後まつはり來る難事を排して勇を鼓し喜んで推進せしのみならず、一方にて仕事の勉強を續け、可なりの收入を得けるなり。氏か製作にかゝる水彩畫は殆と最初より小額なからも、容易に賣れ行きければ自巳の愛着する油繪に望を屬せんよりは、水彩畫に依るの成功の捷徑たりと决しけるなり。遂に可なりの成功に勵まされ、ハリエツト、ヒルトンに結婚を申込みつ。一八一〇年六月十六日リンコルンにて式を擧けぬ。こはデ、ウイントの深慮の場合より推すときは、唯一時の感激によりしものならんかし。デ、ウイント夫人は實に好配偶にて心柔和にして快活に、しかも夫の趣味に忠實なりき、デ、ウイントは夫人よりも事務家風ならざりしかば家事向の經濟等夫人に俟つ處多かりき。最初氏は小畫を一ギニー位宛にて賣りて、畫學課の謝金一時間に五シルリングを受けたりき。されと徐々に額を上ぼせ來りて、遂に一八二七年には畫學課の謝金は一時間に五ギニーとなり、畫の値段は五ギニーより五十ギニーとなりぬ。デ、ウイント夫人が夫の收入の定額の貯金を初めけるは一八二七年よりなりき。苟も畫家の夫人たるものは、夫が繪畫外に收入を得るは、甚な難事なることを了解したらんには必ず貯金に注目せざるべからず。結婚せる年の秋、ヨークシヤイアの寫生旅行を終へてより、デウイントはヒルトンと共に十パーシー街に家を持ちぬ。こゝにて翌年の夏一女を擧げぬ。こゝは實に十七年間二人共に住み續けゝる處なりき。一八二七年にヒルトンはローヤルアカデミーの保管人に擧げられければ、室をサンマーセツトハウスに移しぬ。其内デ、ウイントは四十アツバーゴンワー街(當時一一三ゴーワー街)に新家庭を營みぬ。共にこゝにて餘命を終りけるなり。

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