六田の一夜

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

汀鴎
『みづゑ』第三十五 P.13-14
明治41年4月3日

 朝夙めて奈良の宿を出で、汽車にて畝火にゆき神武天皇の御陵を拜す、結ひめぐらせる玉垣いと物さび、境地砂白く松青く嚴そかに神々しく、自から頭下りて、涙さへおちぬべく思はれぬ。それより久米寺を過ぎ芦原峠にかゝる、峠は吉野にゆくべく難所の一にして、上下數里往來の人極めて稀なり。老鶯の啼く音に慰められて漸く頂上に達せし頃一人の道連れを得たり、この人このあたりに住めりと覺しく、吉野の勝を説くこと極めて詳かに明日山中の花をたづねんとする我には少なからぬ利便を得たり。今宵は峠の麓なる檜垣本といへるに一泊の心組なりしが、檜垣本をヒガイモトと呼ふなりときゝて其名の忌はしきに心進まれば寄らで過しつ、景色よき川に沿ふて溯ること數町舟にて對岸に到れば、こゝは六田の里とよばれて梢の花の雪と紛ふ芳野への登り口なり。
 

カツサン氏鉛筆臨本の内

 六田には小さき旅籠屋たゞ一あるのみ、宿りを請ふにいざとて奥の八疊に通されぬ、この家にとりては第一の室と覺しけれど、柱傾き壁破れ、疊黒くして居るに物憂し、運び來れる茶は土臭く、小皿に盛れる金米糖は角とれて色は濁れり、試みに指もて押すに音なくして碎けぬ。心待ちにせし夜の膳には、何やらの燒肴舌もや刺さんと恐れて箸さへつけず、椀には湯婆筍の汁に、御馳走振にや鷄卵の半は煮へたるを添えたれど、異なる味に咽喉を通らず、海老の佃煮、色醜き香のもの、見渡す限り口にすべきものなきに、況して一人の客に勞を惜みてにや、飯は暖かき湯氣はあれど、蒸返しにて厭ふべき匂りあるに、いよいよ恐縮して、例の土臭き茶に助けられて僅かに一椀を畷りぬ。
 風呂は家になく、湯札もちて二三丁先ヘゆくなりといふに勇氣もうせて、やがて臥床に入るに、夜の具は、その堅さよりいふも重さよりいふも、又その冷やかさよりいふも、恰も石の衾にあるがごとし。今日道連れの人の話に、吉野といふ處は一年の生計を花時十日に取立るが例にて、不當の宿賃を貪らるゝのみか、客多き時は屡々謝絶せらるゝこともあれば、必ず麓にて泊り給へと言はれしが、この待遇は餘りに情なきに、かくと知らば猶一里を吉野を往きたりしものをと悔めども今は詮なし。
 硬き木枕にも馴れてやがて眠りに入りしが、耳元近く人聲するに、寤めて聞耳立つれば、三四十人とも覺しく道者連の宿りを求めて押問答せるなり、他に座敷とてなきこの家のさまなれば、やがては吾が室へも割込來ることもやと安き心もなかりしに、幸にも店頭の廣間に押合ひ折重なりて枕につきたる樣子なり、さるにてもこの廣き室を一人にて占むるは今更氣の毒にも思はれて、さきの不平は設備の足らぬよりにて、宿の待遇の惡しき故にはあらざりしなど思ひかへしつ。(完)

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