恩師リツチアーズ氏
戸張孤雁トバリコガン(1882-1927) 作者一覧へ
戸張孤雁
『みづゑ』第三十五 P.19-20
明治41年4月3日
前號寄書欄に「われ等の新年會」と題して、日本水彩畫研究所新年會の樣子が木炭の屑と云ふ人に依て紹介されて居たが、其通り實に愉快な、且摸範新年會であつた。余も大下先生の御招待で其末席を汚し、最も熱心な諸君と會する事を得て嬉しかつた、其時大下先生は挿畫に就て何か語れとの御命令であつたが、自分は至て吶辨でもあり尚且つ挿畫の事を將來ペインターとして立つ諸君に語るも多く利する所も無からうと思つて、一言單に他所新年會に先じ禁酒を以てせられた事を諸君及未來美術界の爲めに御喜びする積りであつたが、言葉遂橫道にそれて自分の僅の經驗を語つてしまつた、夫れも言葉足らぬが爲めに海景專門畫家恩師リツチアーズ氏をして兼挿畫家の樣に諸君に誤解さしめて、諸君には勿論師リツチアーズ氏にも申譯ない次第である、此所に謹で罪を謝す、と同時にリ氏の如何に苦學研究したかを述べて諸君の參考に供して見やう、此れに依て諸士が利する事が少く無いと思ふ。リ氏が夜間挿畫を描くと云ふたのは英語のイラストレーシヨンであつて我が國で云ふ挿畫の意よりは廣義で、畫集の如きものと、小説に依てコンポジシヨンを練習して居られたので、書籍の挿畫では無い、氏は「挿畫はペインターの善くするものにあらず」と何日も云ふて居られた其れで僕はリ氏家へ行てからも、前より通學して居たアカデミー及メキアニツクインスチチウト、も等へ通つて挿畫と木炭畫を研究した、其他夏期講習會等へ出席しても同樣でリ氏から挿畫を學んだのでは無い、氏からは風景寫生の順序及コンポジシヨン等の教へを受けたのである、恩師リ氏の爲めに此れ丈けを辨解して置く。
リ氏はフイラデルフイアーで生れた人で家も餘り有福で無かつたから美術學校へ通ふ事も出來ず、青年の頃迄は野生の草花樹枝を寫生して練習し、後には苦學してぺンシルバニアアカデミーに入校し又獨逸シユニツクへ留學したのである、此の間の苦學は一通りで無かつたとは、氏の友の話しである、紐育レノツクス圖書館にある氏の傑作森の畫は氏の二十才の頃英國ローヤルアカデミーへ出品し其時賣れた畫で、此れが氏のそもそも展覽會へ出品した最初の畫である、此の頃は未た海景畫家では無くつて風景畫家であつた、壯年の頃から專心一意海景を研究し遂に海景畫の大家となり、アカデミーの名譽會員にまで推選され、金銀銅牌を得る事は無數である、氏は常に恁な事を曰はれて居た、風景を畫く人は天文學に通じ、植物を畫く者は植物學、人物を畫く者は解剖、哲學者と成る程に熟練せねばならぬと、氏はハーヴアド大學農學博士某氏(今名を失念した)の相談相手であつた、尚氏の子息ハーヴアート、リツチァーズ氏は米國に於ける有名な農學博士で現にコロンビア大學に教鞭を採つて居る、氏は又我が帝國大學の名譽會員である、氏の今日に至りしは一つに父リ氏の感化及教訓であると云ふて居る。
畫家リ氏は余が歸國の際再會の日を待つと云はれしが、余未た發せざるに噫々恩師は七十有餘才を以て遂に天國の人となつてしまつた、同時に僕が再渡米のたのしみは消失せて、此れを記す時だも慈愛深き師の面影の偲ばれて轉た落涙に咽ぶのである。尚ほ北齋翁を酒家のやうに書いてあつたが、翁は元來甘黨であるから序に訂正して置く。