寄書 我水彩畫の歴史(下)
矢ケ崎天民
『みづゑ』第三十五 P.21
明治41年4月3日
雜誌の口繪よし、よそから送られた繪葉書よし身分で買ひ集めたものよろし、泰西の名畫であらうが何であらうがそんな事は問ふ處にあらず何でも彼でも一寸よいと視ればすぐそれが描きたい、描かなければ承知が出來ない、もう隙さへあれば畫だ。
雜誌を見ても一番先に見るのは畫だ。友人の處へ行つても先づ壁の畫を見る。
それで氣に向いたのがあればそれを借りて來て描く。
花がよいと思へば花、風景あれば風景、人あれば人、犬あれば犬、美人あれば美人、牛あれば牛、寫眞あれば寫眞、模樣圖案、山河、草木、人、神、馬、牛、世界あるとあらゆる總ての物をかいた。
其製造力の偉大なることもまた驚くに堪へたりだ、少ない時でも二枚多い時には五枚位一日に描いたものだ。
それでいつも最後に描いたものが一番よく思はれた、初に描いたものよりは二番目がよく、二番目よりまた三番目がよくと言ふ樣に順次によくなつてくる。であるから其得意思ふべしだ、其日出來上つたのは其晩友人のところへ持つて行つて鼻を高くする材料にする。
毎晩々々この樣に御百度を踏むだ、其度に友は感心の角度を高めるばかりだから自分の畫熱も高まるばかりだ。
畫學校から歸つてから描くのでは時間が不足だと言ふので、こんどは晩まで描いた、食後の散歩も止め、友へ送る音信も出さないでかいた、けれど晩かくことはどうも鱈目であることが明瞭であるから、それだけは一週間程で止めることにした。
こんな風でたちまち五六十枚の自筆繪葉書が出來た、之れを今になって繰返して見ると、抱腹絶倒むしろあはれな樣なものである、これでも人からくれ給へなど言はれた事があつたがなかなか惜しくて人に呉れる處ではない、どうしてもやらなかつたが、今になつてみればそれがどの位幸だつたかしれない。
こんな下手なものを友の手に握られては孫未代までの耻辱になる樣なものである。かゝるものを呉れ給へとはよほど苦しいおせじであつたと、今になつて御推察申す。繪葉書製造に着手したのが昨年の九月初旬であったが、十月の始頃には葉書では小さいと感じて、木炭紙を買つて來て、それを八つ切にして描いた、それから四つ切をかき、半切をかき、今年の一月には學校の休を利用して、木炭紙の全紙を描いた。
畫題は雪の朝と言ふので、原圖は繪葉書だ前の右の隅には冬木立が二本立つて居る一條の野川が、廣い廣い雪の野原の左の中程の隅から、畫の中央を曲り曲り、流れて木立のところへ來て岩の枯蘆と冬枯した梢との影を靜に寫して居る。廣い野原の向は雜木林の間々に人家が見える、中には常盤木も三四本混じつて居る。
空は曉の色で、雪の野は一面に紫がかつて居る、野川の一筋は殊に其色が濃い。
これを仕上たときの嬉れしさは、とても筆紙のつくすところにあらずだ。
此頃は今迄のよろずやは止めて、風景一方に傾いてしまつたのである、それで、もはや製造額も頗る減少してしまつたと同時に畫について少しは考へる樣になつてまた。印刷したのはどうも面白くない、實際畫の活動だとか感だとか言ふものは、肉筆でなくては望むべからざることだと言ふことを知り初めたのも此頃だ。
始の中は色彩を御手本に似せようと苦心したのが、それがいっしか遠近を表はす苦心と變じて、それがまた光線の苦心となつたのも此頃だ水彩畫を充分やるには、鉛筆畫の基礎が堅固でなくてはならんと云ふのでまた鉛筆畫をやりだしたのも此頃であつた。
處が日記を探つて見ると。一月十三日神職會議所(上田横町にあり)に丸山晩霞先生の水彩畫展覽會があると言ふので、好機逸すべからずとして行つてみた。
丸山先生の内筆及參考品として、丸山先生が歐米より携へ歸られた圖案、繪葉書、それに長野で開かれた講習會の成績品が重なるもので、大下先生河合先生ののも二三見受けられた。
此度博覽會へ出陳された夏の光麥燒く夕などもこのとき拜見した、尚かつて『みづゑ』の口繪に出た清境、其外駒鳥洪水の音、夏の野、花野後庭等數十の傑作を拜見して、只もう冴然として其入神の妙に驚き入つたのであつた。
これを拜見して大いに得る處があつたのは勿論であるけれども、それと共に精神的に一種の刺激を受けたのも事實だ。
それから一寸二月ばかり畫をかゝなかつた、驚いて自暴自棄したのではない、大いに活動すべく大いに默したのである。
さて久しく默して、將に啼かむとして筆を取つたのが、水彩畫を始めて第一番の戸外寫生だ、つまりそれは展覽會より得たる心の刺激によつて起きたのである。
大膽と言へば大膽、無法と言へば無法。畫板に貼つた紙は木炭紙の全紙だ、場所は松尾城の殘壘に立てる杉並木。
日曜の朝飯を匇々に終へて、大なる希望を腦の中で考ヘて出掛けた。この寫生についての感想は頗る多い、先づ前夜からの用意と希望いよいよ現場へ行つてからの心持、いろいろあるそれは他日に讓る。
丁度正午まで三時間程で、鉛筆の下が描けた、それを家へ持つて來て彩色をする。
毎日二時間乃至四時間位宛かゝつて、一週間ばかりで出來上つた。それがまた頗る氣にいつてたまらない、とうとう額にまで仕立てた。これは今見てもよく思はれる。
それを手始として、烏帽子岳の殘雪(上田の東北方に聳ゆ)冬木立、夕暮の空やたらに、寫生した、爾後寫生と臨畫とかはるがはるやつてゐる。だんだんやつて居る中に腕は上達しないが心は驕つてくる、先づ第一に紙が氣にくはぬと言ふのでケントをはづむ、かく紙がよければ色がよくでる、次にワツトマンをはづむ、なる程益々よい、次には繪具、繪具も高價なのなら一層よい、こんな鹽梅で、技倆は高くならんが洛陽の紙價は益々高くなる呵々。
去年四月廿日には、田舍の椋鳥博覽會見物に出掛けた、上野停車場で先づ見えるのが美術館、さあたまらない、翌日は第一番に美術館に舞ひ込むだ、そこでとうとう晝飯もせずに二時頃まで居た。
見物をするところは博覽會のみならず、市内も歩るきたい、友人の居所も訪はねばならん、横濱へも用事がある、それに廿五日には歸らねばならん、そのたしない中から美術館一つに二日を費した。
思ふに自分が畫を描かない時であつたならば、畫なるものに對してこれ程の興味と注意とを拂はなかつたであらう。
自然に對して感興を起し、また畫に對して其審美的境域に遊ぶことが出來得るのは、一に自分流とは云へ畫を習つた賜であると信ずるのである。