寄書 小言
草水生
『みづゑ』第三十五
明治41年4月3日
○僕は田舍に居るうへ交際はうるさくて大嫌だから友と云ふものは殆んとない、何處へ行つても一風流者、片意地者として度外視される、其の都度胸のなかで『僕は自然の大なる懷ならでは居るところはない』と諦らめて、みづゑを相手に淋しく暮らして居る。
○みづゑの記事のうち何時讀んでも興味のあるのは、柏亭氏の「我が水繪」パルソンス氏の「紀行談」イースト氏の「寫生談」林忠正氏の「洋畫家への忠告」それから「展覽會の批評」等である、一月號に豫告が出てゐたから鶴首して卅三號を待つた甲斐なくイースト先生の寫生談がなかつたので僕は顔色を失せんばかり失望した。
○初めて他家でコンテーの肖像畫なるものを見たとき、濃淡の具合が非度く氣に合つたので家に歸つてから亡き父の寫眞をかいて見やうと思つてコンテーの小さな棒と畫紙とを出した、手續などは毛頭御存知なかつたから(今でもよく知らない)なんでも鉛筆と同じだらうと思つてそのまゝコスコスと塗りつけた、けれどもなかなかうまくゆかぬので、えらいむづかしいものだと思つてやめたことがあつた、後日、友の所で話したら大笑をされた。
○繪具をもつ資格がないと思つたから、潔よく冑を脱いで鉛筆畫を始めたではない、逆戻をした、時は日曜、モデルは福々したオカメの面、位置は、上を向いてゐるのを斜に橫から見たところ、餘程精確にかいた積だが僕のは笑つてゐない、試に紙片を以てモデルの丁を蔽ふた、が依然笑つてゐる、次に口、頬にもやつてみた、いづれも結果がおなじであつた、それから下唇を少しなほし、頬を豐かにしたら、やつと似て來た。
○洋傘をスケツチしたとき地の色につり込まれて、陽部も黒くしすぎたので、どこが影だか解らなくなつた、調子と云ふ言葉は何遍も聞いてはゐるが、實際やつて見るとかう云ふ失敗ばかりある。