小笠原島寫生紀行[一]
丸山晩霞マルヤマバンカ(1867-1942) 作者一覧へ
丸山晩霞
『みづゑ』第三十六
明治41年4月18日
美はしい緑を愛で、椰子の香送る木陰に彩管を弄して見たいと思ふたのは多年の宿望で、そして一と月の間でも煩雜な浮世を忘れたいと思ふて萬事を犠牲にして小笠原島旅行を思ひたつたので、今年の一月十日横濱出帆の兵庫丸に搭じて渡航の途に就いた。同行者は吾日本水彩畫會研究所の生徒松山、志賀、の両氏である。横濱港を抜錨した時は稀なる好天氣であつた、が東京灣を出づると兎角に冬の海の荒勝ちにて、船の動揺甚だしく、進航することは無圖かしいので、難を相州金田灣に避けて投錨した。船室の掲示を見ると『天候不良ノ爲メ相州金田灣ニ避難ス明日午後三時出帆』一月十日兵庫丸
小笠原嶋の航路は八丈嶋を経由するので、横濱を後二時に出帆すると、翌日午前六時八丈に到着するのが通例である、されど八丈には良港灣無きため。同嶋まで達して眼前に岸打つ波や松林の間に漁家の點在を望みながらも、一朝にして暴颶波を舉ぐるの厄に遭逢すると、難を房州館山か又は豆州下田港に避くるとの事である。
金田灣碇舶は約一晝夜であるが、小天地の船中では頗る無聊に苦しむ、富岳の夕陽と日出、さては對岸の漁家漁舟等を寫生するうちに漸く午後の三時となつた。船は錨抜して航路南に向ふ。さなきだに急流烈しき黒潮、加ふるに荒れ勝ちなる冬の海の航路、平穩無事は望む可くもあらず。激浪船を呑んで動搖甚だしく、船暈は乘客の上に落ちて苦悶の聲室に充つ、余も聊か船暈を感じて氣色勝れず、眠るにあらずさりとて眠らざるにあらず、うつらうつらとしてゐたが、翌十三日の未明、八丈と呼ふ聲甲板に湧き、午前六時八丈の北浦三根海岸を距る約一海里程の沖に投錨した。
こゝに十二時間碇舶するのであるから、無論上陸と决した。上陸の用意をして甲板に出ると鳥も通はぬと唄はれし八丈嶋は眼前に浮び出で、左に聳立するは八丈富士、右は三原鳶の口の二峯立ち、嶋も今眼覺めしかの如く、峯を纒ふ雲淡く、全嶋皆淡緑を彩し、海岸を繞れる松翠滴る如く、平和と微笑の相を示して、宛がら吾等を歡迎するものゝ如く、艀舟の來る間ももどかしく思ふた。昨日までは茶褐に眠る内地の自然界に接して居つたが、一夜にして夏かと思はるゝ緑に接するその激變の眼新らしく、更に深い感興を與へられたのである。早速艀舟に移りて上陸した。富士と三原の間は展けたる高原で、この間一條の坦道が通じて居る。昨夜の雨に洗はれた燒砂の路に塵埃無く、夏のまゝなる路傍の草木は緑滴り(凉しき朝風を身に浴びつゝ辿れば、草叢の裡に虫鳴きて、畑の畦畔には菫が紫葩を吐て居る。黄白の野菊も散點して居る。小鳥も歌ふて居る。天氣快晴氣候暖。何ともいふ事が出來ない快感で、この間の趣は詩である畫である。松原が見ゆる、家も見ゆる、牛の群も見ゆる。美裝奇しき八丈乙女が包を頭に頂て過ぐるに會す。松林に旭輝く。春着纒ふた余は暑を感じて上着を脱ぐ、内地の初夏である。船は十二時間の停舶であるから、一枚の彩畫を試むるより、寧ろ逍遙して詩興畫趣を養はんと、ポツケツトにはスケツチブツクの外何も持たなかつた。海岸より十數丁の高原、こゝより三根村である。
三根村は八丈富士の裾にありて、先つ奇しく眼に映ぜしは各戸の構へである。燒石を積みて外廓を繞らし、廓の上には多く椿が列植してある。家は多く茅葺にて床高く、二階建は稀である。殊に奇しきは倉庫の構造である、尺角程の桂を四本建て、地面より約五尺程の處に床を作つたのである、これは蛇、鼠除けのためであるとのこと。椿はこの嶋に多く、到る處のもの皆大樹で、丁度今が花時であつたから、各家々は紅花を以て包まれて居る。目白鳥其の他の小鳥は花に戯れて歌ふて居る。自然美と天樂。これを見これを聽く吾等の幸如何に多きや。
船暈のため絶食せし吾等も上陸して元の人間に歸り、美感に打たれて自然化しても、人間は矢張り人間で空腹を感じた、某食舖に入りて三食分を一度に喫す、粗膳ではあるが陸のものは旨い。該嶋土人の常食といふは、上流を除けば米を喰はず、甘薯と少量の麥粟等にて、米を食するは正月と盆との事である。
の三根村を過ぐるとそこに若干の稻田がある、畦畔には野花咲き亂れて春の野の如く、この間五六丁行くと大賀郷村でである。こゝは嶋中第一の大村で、嶋廳、裁判所、警察署。郵便局等の所在地で、稍市街の觀を呈して、島中唯一の殷賑地である。三根より大賀郷に亘り、入船のため大に混雜を極め、着送荷物の運搬牛の群、乘客の送迎、美しく着飾つた人も見ゆる。内地の友に出す記念端書を郵便局に投じて、村の南端より急阪を下ると南海岸が見える、阪の下は展けた田野で、秣畑の間なる道を七八丁行くと、そこが南海岸で、先づ吾等の眼に新らしくしかも美しく感じたのは、この附近より富士の裾を繞れる一帶の芝生に横臥する松林で、吾高山の★松を見る樣である。高山の松は雪のために這ふのであるが、こゝの松は風の爲めに這ふのであらふ。幹は短かく横に傾き、枝葉密叢して陸の方向に横臥して居る、その葉先はよく揃ふて鋏もて刈りたらん如く、遠く望めば緑の芝生かと思はるゝ。
陸地に深く入るに從つて、幹も枝も、稍伸びこれを防風林として漁家其の間に隱れて點在し、小兒の聲鷄の聲等聞こへ、時に炊煙の立昇るも見えて、閑雅幽邃である。松林を出で芝生を過ぎて海岸に至ると、そこは火山岩の突岩怪石で、恰も刀刄を逆植したかの如く、又は斷巖壁立したるものありて、打ち寄する怒濤はこれに激して白浪を狂散して居る、實に壯觀奇觀である、しかもその岩石は深黒色を帶びて、黒き海黒き岸と、純白の波、見るから凄絶の感が起る。怪石の間僅に一小舟を入るゝ程の小灣がある、これを八重根港といふ。北風のときはこの沖に船を投錨し、艀舟を以てこゝにて荷物のあげをろしを爲すのである。が波高きとき、一度操手を過れは舟は劍岩に觸れて忽ち微塵と碎ける往時難波船の寄り來たるものあるも、該島海岸線は屈折甚だしく、八重櫻の一輪を探りこれを平視した輪廓の如く、それが皆劍岩で僅の沙濱もないから、波濤に弄されて上陸が出來ない、終に岩に當りて碎けるとの事で、同島の恐るべき鳥も通はぬといふ語は、盖しこの邊より生れたのではあるまいか。島内の閑雅幽邃と、沿岸の荒凉凄絶とは正反對で、譬へは鐵壁を以て外廓を圍繞した幽邃なる庭池の如き感がある。故に風景として八丈は變化に富み、外輪にありては壯美の畫趣を需め、内にありては優美の畫興を縱にすることが出來る。八重根港頭より富士の裾なる松林の芝生を辿り行けば、菫蒲公英其他得知らぬ優しき草花の咲けるありてそこには放牛の遊び、牧者の唄ふ節面白し。
荒磯に碎ける浪音すさまじく、靜穩なる松林の裡に聞ゆ。濱萬年青路の両側に茂り、ヤブニツケイの葉に眞畫の日光輝ける燒石の小道を過ると、そこには暗きまでに繁れる松林がある、道は其の中に通じて、入口を望むと恰もトンネルの如き。内部に進み行くと、密叢せる松は細枝細葉を重ねて、殆んど日の光が漏ねない、入口出口より這入光線に微明を放つのであるから薄暮の樣な感が起る、間斷なく激浪の音が聞えて靜寂を破るが、かゝる境が無聞であつたら、幽玄なる神秘的の感に打たれたであらふ。こゝを出づると光景一變展望廣濶の丘に出た、富士の裙は長く引きて海に入り、自浪たどるあたりより、黒き海を約一里程の位置に、直線的の嶮しき島が浮き出して居る、八丈小島は即ちそれで遠方よりは平地等見えなく、人の棲む可くとも思はれないが、宇津木及び鳥打といふ二小村があつて、爲朝の終焉地であるとの事。こゝより海岸近き芝生を引返し、大賀郷の字大里といふに向ふた。東に廻れる海岸は一帶の斷涯で、その手前に僅かの石濱がある、大里村へ行くにはこの石濱近くの秣畑の間、小流に沿ふて登るのである、そこは常盤樹に掩はれた溪谷があつて、道はこゝを通じてある、迂回しつゝ登り行くと、路傍の崖叉は溪流のほとりに奇しき草花が咲て居る。午後の日光は美はしき緑を透してこぼれ、光は緑苔に輝き、小鳥の歌は緑蔭深き裡より聞こえる。落椿布ける上を漫歩して上り行くと、鷄犬の聲近く、梅薫り又は橙の黄熟せるものもある。大里村はこの森陰である。大里村の家構の外廓程麗はしく感じたものは無い、波濤に摩擦されて海岸に打ち揚げられた滑かな橢圓形の石、しかもその石は皆同形態にて、それを一列二列三列と數も線も亂さず整然と積上げ、高きものは數丈に至る、その上には松を列植するあり、例の椿を列植するありて、城壁かと思はるゝ大構への家もあつて、廓上の樹木は皆繁茂して枝を垂れ、なかば緑に掩はれ露はれた石は青苔滑かに古色を帶び、風致實に愛すべきである。古羅馬の殘壘愛すべく、支那の古城壁又賞すべし。されど天工を其のまゝ利用したるこの外廓は、他にその類例なく此島特有であらふ。村は雄山の南面傾斜地にありて、居ながらに海見るべく。樹木欝蒼と繁茂して空氣清淨、南面の日射はよく諸黴菌を殺し、十日の汚塵は一朝の雨に洗掃して由下の海に流し、溪流の清水は筧を傳ふて全區に渉り、排水佳良なるため果實よく熟し花四時に開らく、小鳥又四時に歌ふ夏は凉風來りて冬暖かく、余が理想の境地はこれより遠くはあるまいとまで感じた。巨大の松並木を前にし、常磐木の森を背にしたる鳥廳の側に水槽がある、水汲娘が群つて居つた。八丈婦人の業務といふのは、八丈縞の原料たる蠶業と其機織と水汲みとの事である。水汲娘は三斗入程の桶に水を充たし、夫に木の葉を浮べて頭上に頂き、三三五五往復する樣は奇觀で、風俗畫の好モデルである。此村も今を盛りに咲き竸ふ椿に掩はれて、箴の音は里謠と和してこの間に聞こゆ。椿の葉は黒緑で、これに鮮紅純白の花を着けると、陰欝の感を吾人に與ふるもので、内地にありては社頭寺院又は墓地によく調和するのである、がこの島はあまりに多きためか、又は目白鳥の多く群れて歌舌を弄するためか、内地に見るものゝ如く陰欝の感は起らなかつた。
島民は半原人の如く頗る素朴である。物質的文化の今日にこんなへ間を見るといふのも、島に良港の無いためで、文明の魔風が割合に這入らぬからである、されど娘等は島田髷よりは常世流行のひさし髪が多い。
八丈は一小島であるが、四五時間に於ける外部の觀察にてはその千分の一を盡す事も出來ない、殊に阪上と稱する東半面なる樫立、中之郷、藍ケ江、洞澤、未吉等には行かれなかつた、鳶の口、三原、阪本、富士の諸山は遠望しただけである。こゝに二三ケ月も滯留したなら充分の觀察も出來、畫材も多く得らるゝであらふ。冬の八丈島は吾等内地人より見ると、春と秋を兼ねた冬である、僅かばかりの紅葉も見た、野生の水仙花も咲て居つた、菫、蒲公英、野菊其他名を知らぬ花も咲て居る、小鳥は好く歌ふて叢中虫も啼て居つた。避寒地としては無二の仙境であらふ。然して吾等の外觀を以てすれば、前にも述べし如く頗る變化に富んで居るから、スケツチ旅行として一度は遊ぶ可き境であらふと思ふ。午後四時三根港に歸れば、埠頭は混雜を極め、牛の群人の群、全村のものこゝに集合したかの樣であつた。艀舟待つ間海岸の寫生をなし、奇石を集め奇草奇花を採集し、本船に歸つたのは九時頃であつた。この夜月明く海上波高し。
八丈出帆、小笠原父島上陸とその日の逍遙
午後六時八丈の三根港抜錨。靉靆と立罩めた淡い灰色の空氣に落ゆく夕陽の微光を浴びたる優しき富士の頂嶺は微紅を彩り吾等を見送りて再遊を促するものゝ如く盡きぬ名殘りを吾等は惜しみぬ。船の進むに從つて緑の島は紫に灰に變し、溢岸の黒き岩に碎ける白浪も消えて、何時しか跡無く水平線に消沒した。荒海の波高く、暗藍色の空に宵月懸りて、黒き海に光を燦かして居る。晝ならば青ケ島はこの先に見ゆると乘客の一人はいふた。大きな水鳥は船を掠めて飛び去る。この夜は稀なる好い凪であるとの事なれど、波高く船動搖して、南から吹き來たる生暖かい微風が頬を撫でゝ何となく不氣味であつた。晝の疲勞に又聊か船暈のため心地惡しく、室に歸つて横臥し、この夜は好く眠れた。翌日は終日波の音を聞き、日暮甲板に出でゝ夕陽の美彩に接した、が興多かれど畫にはならかつた。翌十四日午前四時頃である、小笠原島が見えると甲板の上で呼んたものがある、吾等の一行と他の二三のものと甲板に出づると、月は今落ちたはかりか薄暗い海の遙かに大小の島影が見みる、それは小笠原屬島の一なる聟島列島であるとの事。昨夜以來小雨降りて今は止んで居るが雲は低く垂れて暖かい風が吹く、フラネルの寢巻で甲板に居つても寒くない。今より二時間の後には父島二見灣に到着するとの事なれぱ、船暈の苦も僅の間である。暫く横になつて居つたが無論眠れなかつた。夜は全く明けはなれたれば、人々皆甲板に上る等、沈默であつた船内は俄に陽氣づき余も又そこに上つて見渡すと、昨夜の雨に濡れし甲板は洗ふた如く、父島列島は前に展けて、痩削せし高低の山岳重なり、沿岸皆斷崖にて、山は剥落し肉露はれ骨露はれ、軟草矮樹其間に點綴し、欝蒼として雲の如き森林は絶無で、しかも剥落せしものは赤赭と黝黒とにて、暗藍の海に浮び出でしさまは活氣に乏しく、優美を缺き、着色せる漢畫の山水を見る如く、緑蔭に重きを置きし余には大に失望の念を與へられたのである。船は二見灣口に向ふと、左にウエルカムロツグあり、右に野羊山の斷壁ありて、そこを入ると二見灣である。二見灣は太平洋中の散島に比類なき良灣との事で、今迄動搖して居つた船も、こゝに這入つてからは進行も感じない程である。大村の埠頭に近き邊に投錨した。灣外と灣内とは光景一變して、灣を繞れる一帶の山は樹木繁茂し、奇しき棕櫚科の植物が高く直上せるものが多い。大村の濱には、白幹黄緑の樹が一帶に繁りて、一二の家見へて大村の人家は見えない埠頭には數十の人々が群つて、居る。氣候は暖かいといふより暑かつた、上陸に際して手荷物が多いため、冬服の上に更に冬着のオーバコートを重ねたのであるから、暑苦しさは焦熱地獄である。昨夏の炎熱には白馬山に登り、氷寒の雪田に凍え、今日は三冬の嚴寒小笠原の炎熱に冬着を重ねて暑に苦しむ。余が奇を弄するの甚だしきやと獨り默笑をもらすうち、艀舟は埠頭に着た。余等一行の來ることを、兵庫丸事務長より豫て通じ置たので、金子といふ旅舍の主人はこゝに余等を迎へたのである。埠頭に群集して居る人々は無論内地人であるが、人種の異つた歸化人も雜つて居る。一木一草より山容海色、さては空の色までが内地と趣を異にして居る。同じ島にても八丈は内地の面影を認めたが、こゝに到れば乾坤一變の感がある。昨夜來の雨はごゝも降りて、朝まで曇りし空は全く晴れて、拭ふた樣な暗青の空に日は輝き、白砂の路を案内されつゝ行くと、路の両側には嘗て南洋に見たる植物が繁つて、花咲けるもの實を着けたものもあり。
約一丁程行くと、そこが大村の通りである。二見灣よりは防風林に隱れて見えなかつたのである。白砂の通りは區劃整然とし、家は小なれど軒を列べ、暗緑鮮緑の樹木はその間に點綴し、内地の眼を初めてこゝに移すと、如何にも奇しく感ずる、凡てが歐化された趣がある。暫くして宿に着く。門を入ると珊瑚礁の砂礫が敷てある、其両側には香蕉が植へ並べてある、通された座敷は南北に面し、裏庭は平坦で、家よりも高く伸びたる香蕉數株ありて、重き程の實を着け暗紫の花は大なる葩を吐て居る、その他眼新らしき花卉の植込ありヘゴの枯木にて籬したる先は風防林にて、幹白き濱桐の巨樹は、鮮緑の葉と象牙もて作りて鈴の如き實を着けて居る。緑の香を送る凉しい風が吹て來る。風防林の先は一帶の白い砂濱で、青い二見灣も樹間を透して見える。吾等は早速冬服を脱し、清水を呼んで全身を拭ひ、單衣に改めて清翠を眺め、凉風を浴びつゝ黄金色のバナナを茶うけとして、一椀の茗を啜つた心もちは慥かに仙靈に通じた樣であつた。船暈は陸地を踏むと忽ち全癒するもので、船中の苦悶は跡方無く消滅した。同時に感じたのは空腹である、一晝夜絶食の空腹をこの朝充したのである。食後輕裝して的無き逍遙に出かく。大村の町を西に向つて進む。この島の家作は皆小さく内地の家に比する皆小舍の如くで、二階建といふのは僅かに二三あるのみ、暴風烈しきためとの事である、家根は多くビロー樹の葉にて葺てある。蕃瓜樹は家より高く直立して、緑と黄なる實を斡に着けて居る。椰子の樹又高く伸び、暗緑に茂れるゴム樹は氣根を垂れ、白砂の路に凉しさうな暗き蔭を投じて居る。數戸の荒物店又は島産を鬻ぐ店、蕎麥屋八百屋肴屋もある。タマナ樹の茂れる間は小學校の大なる建物がある。石造の郵便局がある、大にして且つ美なるはこの島唯一の建築である。椰子樹を門の前にし、樹木に蔽はれた建物は警察署で、その附近に島廳裁判所監獄署がある。三ヶ月山より流れ出づる大村川の橋を渡りて、タマナの並木道を行くと、そこの部落を西町といふので、歸化人等も栖んで居る、何れも庭園廣く、果樹香蕉等茂りて、家は皆これ等の緑に掩はれて居る。測候所の前なる坦道を行くと、風防林の中に這入る、この盡る所より赤土の阪路を登ると、昨夜の両の乾かざるため道辷りて、赤土は粘着し、下駄に附着して、容易に取り退く事が出來ない、頗る因難を極て攀ぢつゝ上ると船見山の一角墓地に出でた、美はしき芝は一面に地を蔽ひ、墓碑其間に散點して居る、一墓標の前に白き花手向けたるあり。この間を辿り行くと、丈長き茅細逕を掩ふて身をうづめ、漸く山背に出で、草に踞して展望すれば、今朝入りし二見灣口とその灣内と、大小の山岳の起臥して波の如きと兄島弟島とを見る。この邊タコ及ビロ樹多し。道を轉じてこゝを下ると、甘蔗畑パイナアツプルの畑がある。大村の町を一望する丘の側面に、胡瓜、茄子、南瓜等の花咲けるもの、實を結びしものがある。内地の嚴寒に對比すると、今日この頃實に珍奇とすべきである、が冬知らぬこの島にありては、これが普通であるから更に珍物でも何でも無い。船見山の麓で鶯が頻りに啼いて居る。こゝを下ると僅かの平地がある、そこに砂糖製造所の小舍がある。こゝを下りて大村の宿に歸つたのは正午頃であつた。
午後又宿を出で、東海岸の方に向つた。埠頭の附近は風防林を廻らして、島廳の苗園がある、濱萬年青、椰子、子ム樹、メリケン松其他南洋より移植したるものが培養してある。海岸に出づると、一條の道路は灣の沿岸を通じて居る。沿岸は多く斷崕で、タコ樹のこれに懸りて長き氣根を垂れて居る、この樹はパンダナ、榮蘭、林投樹、露兜樹等の名稱ありて、南洋諸島には到る處に連生して居る、高さ一丈位より四五丈に餘り、本幹より七八、時にば十數の氣根を垂れ、氣根の地に入りてそれより更に根を生じて、木幹を支ヘて居るから、烈風にも折れない、梢上數枝を岐ち、枝頭一所に細長き數葉生じ、色深緑にして光澤あり、長きものは四五尺より八九尺に至り、葉間果梗を垂れ、龜甲紋をなす團塊の實を結ぶ、生は青緑で熟すれば一半赤く一半黄となりて美彩を放つ、幹より氣根を垂れし状、恰も蛸に似たるより名附けられたのであらふ、葉は席、帽子、籠等を製し、實は食用となり、南洋諸島には尤も有用の樹にして、美感の上よりも風趣に富んで居る。本村より二丁餘にして、隣濱といふ一沙濱がある、濱桐の風防林を繞らしたる蔭に、歸化人の家二三戸あり、家のうしろには稍平地ありて、果樹香蕉の類が栽培してある、家に附着して小花園がある、紅白の花が咲て居つた。こゝより又斷崖の下を二三丁行くと清瀬といふ處がある、こゝには石炭貯藏小舍と、二三の船小舍と一農家があつて、蔬菜香蕉等の畑もある、海岸に接してタマナ、海岸イチビ等密叢して、道は其の間に通じて居る、滿潮のときは林際まで潮の打ち上るためか、美しい沙地がある、タマナの厚き葉は暗緑に光澤を帶び、日の光のこれに映じて輝き、暗き蔭を白砂に投じて、深紫の色を呈した濃淡の對照は、如何にも熱く感じられ、あまり遭逢せさる畫材であるから一種の感興を起し、明日は小笠原到着の筆初めとして、こゝを寫生なすべく决した。今日は風無く平穩の日和である。清瀬の森を出づると橋がある、橋の下は干瀉にて多くの蟹が群つて居つた。崖又は山腹に傍ふたる沿岸を辿り行くと、水鳥の干瀉に遊ぶもの、小鳥の森に歌ふありて、雜草の上には蝶が舞て居る。内地の初夏である。
奥村に到着して或家を訪問した、そこには八丈生れといふ婦人ありて、吾等のために茶菓を供してくれた、辭するとき内地流儀に銀貨を投じて二三丁行くと、跡より追かけて來たのが今の主婦で、投じて置た銀貨は受けぬといふのであつた。後に到りて、其の家は歸化人の家で奥村一の資産家だとの事である。粛村の海岸は遠淺で美しい白沙の濱である。海岸の風防林は皆巨樹で欝蒼として居る、それに圍繞された奥村は田園拓け、果樹蔬菜の栽培せられし間に歸化人の家屋が點在して居る。森林中の坦道を左折して行くと、奥村河の沿岸に出づるので、モヽタマナの紅葉を見る。香蕉の深き處鷄犬が啼て居る。時計は午後四時を報じた。元來し路を引返して大村の宿に歸る。入浴を終りて後園に出づると、日は西に沒し、宵月は空にかゝりて、濱桐の葉に影を宿し、月の花かと思はるゝ程美し。
浴後月明の散歩
浴後の肌を微風に吹かせ、月明に乘じて大村の町を散歩す。名奔利走雜沓の巷に引換へて、何れの家にも島的太平を謠ふて居る。西町には歸化人多く栖みて、香蕉深き庭池より樂の音等聞こゆ。月の夜には煙かと思はるゝメリケン松は、この邊に多く茂つて居る。タマナの並樹が両側に立ちで、路を掩ひ、この間は暗くて、布きつめた珊瑚礁の破片に下駄の觸るゝとき、チリンチリンと金屬の音がする。タマナ樹一名テリハともいふ、光澤ある葉に月を宿して、星の如く螢の如く燦爛としたさまは、内地に見る事の出來ない南洋特有の美觀である。暗き蔭の所々に月光輝いて白く光つて居る。島廳の前を過ぎ監獄署の前に出た、小さな溝を前にしてそこに橋を渡して門がある、門には黙燈の設備はあるが點燈してない、構に面して板塀がある、それも破れて門の必用を認ぬ程である、それのみか署内に燈光がなかつた、定めて庭内は雜草が生茂つて居る事であらふ、余は荒凉たるこの光景に接し、豫ての理想の實現に絶喜したのてある。物質的文化の今日、日々の新聞紙は罪惡の記事を以てその三面を充して居るのに、こゝは名ばかりの監獄署を持つて居る、小笠原の名譽は實に誇りとするに足るのである。小笠原は桃源である。余が理想郷である。余は今宵月明に乘し、ゆくりなくこの好畫題を得たるを喜び、甲斐ありしこの旅行に滿足したのである。こゝより道は小流に傍ふて、タマナ、メリケン松等の間に通じて居る、この道の何れに通じて居るかは無論知らなかつた最早村を過ぎて人家はこのあたりに無い、路傍の草叢には好い聲を放ちて虫が鳴て居る。月の光は秋月の如く澄みて、微風顔を拂ふて心地よく、これといふ目的なしに一丁行き二丁辿る、道はこゝより阪路となりて山に登るのである。神の御心を得たる桃源には鬼栖まず、といふ事を自覺したのであるから、心の底から安心を得たので、夜であらふが山であらふが、森林であらふが、淋し味は少しも起らぬ。阪路を辿り行くと光景一變して巨大なるビロー樹の叢生して、恰も數百の柱を建てし如く、月のこれに懸りたるは、ゴヂツク風の大寺院の裡にありて、神の御光に接したかの如く、叢中の虫聲は神かと思はるゝのであつた。折りから阪の項より下り來る人々の噺聲が聞こへる、その人々は漁夫にて大小の魚を擔ふて下つて來た、余はこの人に就て何れに通ずる道なるかを尋ぬると、宮の濱に行く道で、そして宮の濱はこゝよりあまり遠くないとの事である。今宵の靜夜月を踏んて宮の濱邊を逍遙するは如何に趣味多からんと宮の濱行きと决し、茲に目的は出來た。ピロー樹間を數丁登ると、そこが阪の頂上で、北の海一帶兄島弟島も見え、宮の濱は直下に展けて燈火一二點を認む。今來し方を望むと、大村と三カ月山の間に二見灣が現はれ、境浦邊の漁火も見えた。阪を下るとそこより甘蔗畑で、急阪を迂曲して漸く平地に下ると香蕉椰子等に蔽はれた人家二三ありて、こゝが宮の濱である。如何に月明なればとて、このあたりを逍遙するものは他にあるまい、農家を驚かすも不本意なれど、先づ一農家を訪問して來意を通じた、若き夫婦もの居りて彼等は八丈より移住したとの事。山中の一軒家に、世に憚からぬ戀に浴さんと何かの戀物語に見たが、波路遙けき島の一隅、宮の濱邊の一とつ家に世に憚からぬ戀の勝利者と彼等を見たら、この間は詩である畫である、彼等が單調の生活に、稀に訪問する人あらば嬉しからん、心をこめたる待遇ぶりに山茶も甘く味ふたのである。元來し道を引き返すも興なければ、大村に歸る他の道をとることにした不案内なればこの家の主人はそこまで案内するとて、導かれてこの家を辭した暗き風防林を出づると一帶の砂濱白く灣曲して、黒きカノー船が散在してある、寄せては返へす白浪に月碎けて黒い海を隔て兄嶋の山が突起して居る。濱の白砂に吾等の足跡を印しつゝ二丁程進むと、暗き風防林の間に細逕がある、そこにて委しく道を教示されて、林投樹ビロー等の間を辿りて山の脊に出でた、小逕は二つに別れ、余は誤て右に踏み込むと、その道は山の脊を傳ふて漸々峯の方向に通じて居る、このとき踏み誤まつたことに心附いた、が興を求むるには變化の多いのにあるから山の頂巓に向つて進むだ。脊より峯に亘りて地面が露出して居る。
晝見たらこゝも赤土であらふ。漸く頂に登ると、こゝより道は二方に別れて居る、左りの道をとつて下ると、道は草に隱れてこゝよりは道をたよらないで、足場のよい處を選み、木の間や叢をくゞりつゝ行くと、直く下に畑が見ゆる、畑があれば必ず道が附隨して居る、畑か見的に漸く下つた、果して道があつた、その道を辿つて行くと、道より稍々高き所に農家があつて、燈火も見ゆれば人語も聞こゆる、この道を行けば必ず二見灣の沿岸に出らるゝと思つた、がこゝに立寄りて尋ねた、主人は病蓐にあつた、小舍は農家らしいが、主人と内部の状態は農家では無い、内地の人が煩雜界を避けてこの嶋に渡航し、幽邃の境を占めて靜養して居るものにはあるまいか等思はれ、この間の趣きも詩的化したのでてる、果して詩的であつた、數日の後この主人と新知己になつた、主人はこゝの官吏で主義ば余等と同一である、一樹蔭の縁は今は友人となつたのである。この家に茶菓を饗され、親切に案内されて清瀬に出で、二見灣頭に月を賞しつゝ、變化多き月下の逍遙を果して、宿に歸つたのは十一時であつた。