ピーター、デ、ウイント[ ]

青人
『みづゑ』第三十六
明治41年4月18日

 デ、ウイントが公立畫館に於ける冒險をこゝに語らん。氏がローヤルアカデミーに初めて認證せられしは一八〇七年なりき。氏の繪畫はトレンサムの景色と、一ツは氏が愛着の畫題たるナトロツク、ハイ、トーアなりき。翌年美術家協會の設立ありて、此の展覽會に氏は水彩書二枚を出品しぬ。一八〇九年に九人に撰はれて、斯會の會員となりぬ。時の批評家はレポジトレー、オブ、アーツにて此新來の美術家を叙して、其畫風を論じぬ。實にデ、ウイントは自然を正格に觀察し、圖樣を撰ぶこと優麗に色彩眞正にして單簡なり。又デ、ウイントの作品には重なるものゝ表明ありて、非凡なるものゝ萠芽を供えたり、と。かゝる説は氏が晩年の作には當箝るべくもあらず。殊に戸外の寫生畫は汚濁の色彩を塗抹したるものといふも過言ならず。
 一八一〇年二月二十二日デ、ウイントは水彩畫會へ會員として入會しぬ。氏はフレデレツキ、ナツシ、カプレー、フイーデングと共に撰ばれぬ。一八一一年六月二日會員の希望にて、正員となりぬ。これが爲に、コツクスより早く人に知られけるなりけり。コツクスは一八一二年六月に至りて初めて會員となりしなり。一八一〇年より一八一二年の間にデ、ウイントはソサイテー、オブ、スプリングガーデンの展覽會に十八枚の畫を出品しぬ。一つはヨークシヤイアのコミスボロー城の景にて、實に好畫題なりき。一八一五年のキヤタロクには、エ、クリケツトマツチを載せたれども、エリソン氏が一八六〇年にサウスケンシングトン畫館に出したるゼ、クリケタースてふ有名なる畫と同樣なれば、何れが何れを眞似ねしかてふ事も判じ難し。兎に角にクリケタースの畫は高尚なる畫なれども、空を無視したる繪なり。此の繪には單一なる歴史ありしなり。之はデ、ウイントが此の繪畫は賣れざりしかば、新規の張換の費用を節するがために此の繪の上に他の畫紙を張りけるなり。氏の死後クリステースの竸賣の準備をなしける時に、ヴオーキン氏が此繪を掘出しけるなり。されば此の人の當時の驚喜の状を常に喜んで話しけるなり。若し夫れゼ、クリケタースが實際に一八一五年のクリケツトマツチと同畫なりせば、その埋沒しつゝありし年月は殆と三十四年餘ならざるべからず。

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