寄書 豆相の一日

夏廼家主人
『みづゑ』第三十六
明治41年4月18日

 此陽氣を、紅塵の裡に燻ぼりて、すごすも本意ならずと、茲に伊豆めぐりを思ひ立つたのは、都は花に浮かゝる四月の初めである。
 國府津行の二番列車は午前十時と聞けば、支度も、そこそこに繪道具引擔ぎて宿を出づ、折しも降り續きし前日の雨にて、途上木々の若芽は一段に生氣を添へ、江戸川の櫻花は、はや七分通りも綻びけり、名殘惜しくもそれを後に見て電車に搖られつゝ新橋停電場に着けば、發車迄には、まだ二十分許りの間あり。
 やがて汽車は緩々と進行をはじめ、芝浦あたり馳せる時、今朝はさりとも覺えざりしが、又もや雨雲たちこめて、品川の空も仄暗く、灰色の眞帆片帆遠近に漂ふを見るのみ、富士の高嶺も今はその頂だに見せず、茅崎大磯あたりには未だ人多からねばいともの淋し。
 かくして國府津につけるは、十二時を過ぐる四十分、直ぐに小田原行の電車に乘る。唯一輌の三等車に闇雲押詰められて身動きもならず、ゆられゆられて行くほどに、酒匂川もいつか横切り、右手に足柄龍神岳など眺めて進む、酒匂の街を通るころ、氏神の祭禮とや、村人ども旭に櫻の山車を曳きつゝ、傍へには白きものしたゝかに塗りて、忠臣藏の扮装嚴しく、それぞれに槍小太刀掻込みたる若者附添ひて練り來るに逢ふ、娘内儀も今日を晴と着飾りて、ものものしく電車を打戌るも可笑し。
 二時少しすぐるころ、小田原に着きて三時十三分發の熱海行輕便汽車に乘りて南す、されど汽車とは、ほんの名ばかり、青梅線のそれよりも狹く小さくして、之もたゞの一輌、尤も一二等車は別なれど案外に客多ければ二等三等もあらばこそ、吾勝ちに突き除け押し退け辛うじて坐を占む、あはれ議員の歳費請取るも斯くやなど要らぬことゞも思ひ出でつ、やがて汽車は醉泥のぐらつく樣に、或はだしぬけに引手操る樣に、柄にもなき大聲の汽笛鳴らしつゝ進むほどに、田舍の車掌の呑氣さ加減、車が停まりても絶えて其地名を呼ばねば、那邊が其處やら掻暮れ解らず、車内にては知らぬ同士の押問答、中には足許から鳥のたつ様に、物忘れして飛び下るなどの滑稽もあり。
 伊豆の海岸は、なかなかに嶮阻と聞きけるが、汽車の沿道は分けて甚しく、百仭の懸崖を脚下に瞰て、生死一瞬の膽を冷す場所も尠からず、乘合の一紳士、傍への人に顛落の虞なきや、など問へば其人答へて、されば此汽車の脱線は屡々聞きつるが、此間端なくも一輌顛覆して、多くの怪我人をつくれり。その中に、さるやむごとなき姫君の、いたく額を傷りて、今尚眞鶴病院に治療中なるが、洵にいたはしき限なり、などまのあたり聞かされては、遉に好き心地もせず。
 さるほどに坂を登り、山を超へ、畑を横切り、村を過ぎづゝ、左手に相模灣の窮りなき海原を眺め、近く渚に跳る白浪を瞰下し、蜿り蜿りて行く中に、汽罐車に故障を生じたりとて、江の浦停車場に待つこと半時間ばかり、横合より、口善惡なき頓智者、是では輕便にあらずして不便鐵道なり、など云へるも理ぞかし、それより程なくして眞鶴停車塲に着す、霎時茶亭に憩ひ、里路傳ひし、とある小丘の裾を繞りて、黄昏眞鶴の街に出づ、此處にて銚子あたりの漁師町にも似たる石段幾つとなく下り、平井屋といふに靴の紐を解きぬ、案内されたるは、床の間もなき汚らしい四疊半、段通のしかれたるはよけれど、いたくもの古りて所々に拳ほどの穴さへあり、さは謂へ何時も財布の底輕き素寒貧には、仰山な待遇をうけるよりも、却てこの方が都合よく、贅澤をぬかすでもあるまいと、下婢のするがまゝに、そは兎もあれ、襖隔てし四五人の相客、女二人ばかり連れたれば、夜更くる迄高聲に噺合ひ、かしましさいふ許りなし、其又隣には行商人とも覺ゆるが、圍碁を賭けて、金錢の音をチヤリチヤリとさするに、はや胸惡く、中々に寢心地安からざりし。

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