イースト氏寫生談 自然に對する態度

石川欽一郎イシカワキンイチロウ(1871-1945) 作者一覧へ

石川欽一郎
『みづゑ』第三十七
明治41年5月3日

 自然に對しては謙遜なると共に大膽なれ。自然に親しむも我見識を棄つべきに非らず。徒らに畏懼せず。心に我が作に向ひ憶せず疑はず腕一杯奮ふべし。能く自然を注視熟察し。さて意を决して筆を採らば確信を以て大膽に思ふ處を現はすべし。畫をかくを仕事と思はず數寄でやるべし。寫生の足らざる畫は誰もすぐ之を看破すると云ふは。畫に確信なく活氣なき故なり。やつと纒めつけたとしても。其纒めつけた跡は終に蔽ふべからず。然るに自然にありては毫も纒めつけた跡なく。如何にも面白く有の儘の姿にて勢ひあり一寸したるものにも幾万年の星霜其中に籠れりと云ふとも。打見たるところ至極平易にして無理なき其儘の姿なり。我畫術に於ても亦此の如く。畫は單に外觀上の模倣にあらず極めて深き含蓄なかるべからずと云ふこと。能くこの點に於て自然と似たるものなり。
 我には一己の量見あり。凡て風景は皆我がために在る。我が勝手であると云ふ意氣込にてかくべし。又た自然の裡に伏在する力なるものを尊むべし。之れを尊むに於ては自然を粗末にすることなく。益々之に接近して奥義を究ることを得べきなり。
 畫は全幅より一齊にかき。一部分のみ先きに仕上げるはよろしからず。音樂の合奏の如く。一齊に演じ拍子が揃ひ緩急整ふが如く。線も色も能く調ふべし。
 畫に見るものに一切頼らず凡て自然に依るやう心がくべし。畫によりて技術上の考案を立てず皆自然によるなり。之我仕事なり。學説口傳に就ては今茲に云はず。何んでも自然と接觸し能く之と親しむことを得れば足れり。一生懸命自然を研究し一々其變化の有樣を學ぶべし。自然の美はとても學び盡くすことができずとも追々修業せば有益なる事を識るに至らん。例へば毎朝辛抱して數週間同じ時刻に搆はず空を寫生して居れば。終には幾分空に就て新版の書物を讀むよりも多く得る處あるべく。其他皆此の如し。
 日々木を寫生し。一と月も經てば今まで心付かぬ木の特徴を知るに至らん。人體の骨格筋肉の名稱を知るとも其用を知らねば何んのかひなきが如く。木を畫くにしても。必要に應じ位置に適するように形を直ほすとも少しも其木の性格を失はざるやう充分に之れを研究し置かざる可からず。丁度人物畫家がモデルを用ゐずして容易に活動する人物を畫くことのできるよう能く解剖學を研究し置くと同じ。之れ人に確信と見識とを與ふるものにて即ち我か安心なり。例へば此の木を止めて彼の木を代はりにつけたほうが位置が面白いと思はゞ。以前其木を植へた人の如く我も亦之れを畫中に植へて少しも差支へない。併しもし充分に其木の性状を知らざれば植替へても無駄なり。作り物の如く見へて露見すべし。能く能く木の根付き。据はり。形ち。性状等を知りたらんには其木は正し。要するに何事も學ぶにあり。何の爲め又た如何なる譯と云ふことを研究すべし。自然に就て知る處彌々多ければ。我作品は益々簡明健實なるに至らん。
 物の反射。陰の色など研究に面白く。物の遠近に依り其影の形が異なる工合。木の間隙が時にはぼんやりと丸く。時にははつきりときわ立ち。景色が一日の中に段々色が變りゆくなど。其他種々有益なることに心を留むべし。露の玉の輝くさまは美くしく不思議なるものにて。研究するも差支へなしと雖も。先づそれよりも。最初に空と地面とを研究すべし。自然の細かい處に面白味は有れども。今やることは大なる部分にあり大體の要點を確かと捕へて畫き。最とも好き材料のみを選んで風景畫を作るにあれば。用なき小部分は如何程美しとてもその爲め我大目的を忘るべきにあらず。何んでも世の中を行くには目的が大事なり。出來上つた畫に對しては。我のみ責ありて材料の方に間違あることなし。自然は。シエクスピヤにも厚意を表し又た我にも厚意を表す。併かもハムレツトの着たる衣服の紐釦は何々であると云ふ如き細事はシエクスピヤは示さゞれども。其人物の性格に至つては能く之を現はせり。我等は紐釦や紐のごとき芝居道具には用なく。たゞ活躍たる歴史上の人物を見れば足れり。畫もその如く。小間小間したる自然の細部には用あらず人を感動せしむる如き大なる強き主要の部分に用あるものにして。我れ之を見且つ感じたる如く人にも見せ感ぜしむることを得ばそれでよろし。有力なる人々は畫ではなくとも盛んに思想界に活動し。我は此人々に多大の望を囑する如く。その人々も亦我に向ひて大作を出さんことを望むものなり。
 建築家は材を責めず。木口が如何に上等なりとも出來上つた家が必ずしも賞賛を博するにも限らず。畫家も其通りに。我腕の足らざるに苦情のもつて行き處なし。自然は我にも人にも同じくあるなれば。古への大家の如く我も之に就て識る處あらんには。なにか別に新機軸を出し得べきなり。
 念を押して云はん。我作に對しては確固不抜の精神を以てすべし。いつも手本や寫生に苦心するを耻づべからず。克己出精すべし。目を開け心を啓き。手を休むる勿れ。畫上に洽ねく心を配ばり。此處に一點彼處に一劃。直ほせるだけ直ほし。空に一筆前景にも一筆中景にも一筆を萬遍なく畫き。一氣に仕上げ。方々に趣味を分たず。皆均しく同じ目的に向ひ。各部分は互に照應し。全體に隱健確實にして。寫生として誤らず。自然として無理なかるべし。纒め付けた跡少しも無く。平氣に樂々と出來上つたやうに見へざるへからず。併かも畫くときは苦心惨憺漸くにして出來たりとも。其の結果は簡明直接。美しき歌の如きものあらば。之れ其畫の成功せる所以にして。一點一劃の取捨すべきものなく。全く整備し。之れにて出來上れるなり。
 熱心なく勇氣なき人は家に居て我に適する他の仕事を爲すをよしとす。風景畫家には熱心なかる可らず我が趣味あることを人にも談して少しも可笑しきことなしと雖ども。其人が畫に同情あるや否やを先づ知るべし。畫をかくことは耻づべきに非らず。他の人も心中には。かゝる趣味を持てぬ故畫のかける人を羨しく思ひ居るものなり。

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