小笠原島寫生紀行[二] 鉛筆スケッチの一日

丸山晩霞マルヤマバンカ(1867-1942) 作者一覧へ

丸山晩霞
『みづゑ』第三十七 P.8
明治41年5月3日

 天色晴麗!!何時もより早く松山氏と携へて大村の宿を出でしは午前七時頃であつた。頃日來の雨は全く霽れて、洗はれた連山樹林は鮮色を以て吾等を迎ふ。二見灣は今研ぎしばかりの鏡の如く、大凪の沿岸は漣波だに見ない。朗かなる春の日和、見るもの皆めでたし。大村の濱を奥村に向つて辿る。清瀬の森に茂れるタマナ、イチビ、ハマギリ、今日は殊に新緑鮮かに、山の端に輝く旭に照され、光彩爛々として、目映ゆし。奥村の海岸、退潮の白砂を踏み風防林を出づると、奥村河の附近一帶はカタバミの花紅を點じて美はし。旭山の北麓奥村の平地の極まる處、路傍に巨大なるガム樹あり、そこに某の碑建てり。頃日來の雨に例の赤土路辷りて道はかとらず。このあたりよりは余等の眼に初めて映ずる光景である。阪路を攀ぢつゞ行くと、日々草の小花紅を點じ、それが天の梅、アレキサンドル等の白花と相俟ちていと美はし。アカテツ、クロテツ、ロースード等の樹茂りて、其の間よりビロー樹か高く直上して居る。今來し方を顧れば、歸化人の部落は瞰下に開展して、蔬菜園の間香蕉に包まれたる家の散在するのも見える。防風林外一帶の砂濱は清瀬に亘り、船見大村三ケ月の諸岳聳立し、左方旭山の一角に遮られたる二見灣は、宛がら一大湖水に臨むの感がある。奥村川の深谷を左方に臨み、旭山の斷崖を右方に仰ぎつゝ攀ぢ行くと、今迄見えた二見灣は樹林に沒して、林中鶯の歌舌を弄するを聞く。稍下りて沼澤あり、小流に傍ふて細逕あり、カミソリ草、山スゲ道を捲ふて露深し。二丁程入ると稍高き處に小舍がある、小舍の主に何の用事も無いが、例の好奇心と畫材を得んためにそこを訪問した。旭山裏面の溪谷を負ふて僅の平地を前にし、香蕉の緑に包まれた一と構へは床しき感起る。されど栖みける主は不在なれど、素足の乙女は垢附きたる粗服纒ふて、賤の生活を物語つて居る。用事無き訪問に乙女一人なれば何となくうしろめたければ、初寢浦には何れの道を選む可きかを尋ねた、乙女は心切に教へてくれた、尚其の上の注意には、細逕にカミソリ草といふもの茂り居りて、これを手足を觸るると、恰も剃刀にて斬られたかの如き傷を受けるとの事であつた。本道に引返して又嶮阪を攀づると、杪羅の木を以て土止めしたる處あり、右折した小高き所に上ると、展望可なる平地に住み捨てた敗舍がある、庭も畑も皆荒敗して、雜草の叢生するまゝに任せてある。こゝより展望すると、旭山の裏面一帶より二見灣の一部と兄弟島を眺むることが出來る、この邊の澤は皆香蕉を栽培して、花は暗紫の葩を吐て居る。漸く阪路を登りつめると、そこには北海岸の岬突出して、兄島の一角その前に現はれて居る。平穩の日和で二見灣内には漣波をも見ない程であるが、冬の海に平穩の日無く、外海より打ち寄する怒濤は沿岸の岩石に碎け、雪の如き白浪を上げて頗る壯觀である。こゝを少しく横斷すると、そこより樹木繁茂したる旭平である。道は小流に沿ふて居る。丈高き野榔子は傘状を呈して、他の樹よりも高く各所に直上して居る。森林の中は蓊欝として、羊齒屬の植物オニシダ、タワタリとヅルダコ等一面に茂つて居る。今まで快晴であつた天候は俄に雲を起し、どんよりとした森林の中は薄暮の如くで、而も落ちて來た。二丁餘濡れて行くと、そこに小舍があつて雨宿りをした、病蓐の主人が居つた、この道は何れに通じて居るかと尋ねると、この家に來る爲めの道でこの先は吾か畑道であるとの事。初寢浦にはこゝより行かれざるかと問ふと、行かれぬとはいはれぬが險難で、吾等の如きすら容易の事でない、不知不案内の御身等には先づ不可能の事であらふ、それよりは今來し道を二丁程引返すと、初寢浦に行く本道がある、その道をとりし方安全であると教へた。彼は吾等を意氣地無き都男で、この島に赴任した御役人樣とでも思ふたであらふ、危險を抜渉し冒險道樂の山男の余には、彼の親切らしい言葉が不快に感じた。されど今日強てその險難を試るに及ばず、又の日を期してその行を恣にせん、と幸に雨も止みたればこゝを辭し、二丁餘り引返し、左に折れて森林の間を辿り行くと、道は漸く狹まりて先の乙女に注意されしカミソリ草が一面に茂つて居る、注意を拂ふてこゝを過ぐると、雲は散じて日は青空に輝き、鶯は附近に亂調を弄して居る。

父島初寢浦激浪(丸山晩霞筆)

 木の間より海見えて東島は長くその前に浮んで居る。霜知らぬ茅は竹の如く節つき、丈高く伸びて吾等の身を沒し、困難を極めて進むと、夜明山といこ標杭が立つて居る。こゝには樹木少く一帶の草原で、遙かに小舍が見える、農夫は遠慮無き聲を放つて唄を歌ふて居る、野鳥の歌舌を弄して居るかの如く、人間の放歌とは思はれない、美音では無いが無邪氣で自然である。杪羅、カミソリ草の澤から清水が湧出して居る、渇ける喉を濕ふす。赤土の道は出水のために深く堀れて水無き河の如く、こゝに木の實が落ちて居つた、六日月の樣な形態で色は鮮黄である、これを拾ふて鼻にすると如何にも甘さふな匂ひである、松山氏は試食して見るといふのであるが、僅かに二箇といふのであるから余は許さなかつた。道は左右に分れた、松山君は右して余は左した、終には會するものと思ふたら全く別々の道であつた、最初はオーイ呼べばオーイと答へたが、その聲も漸く遠く、終に應答がない。四五丁行くと大きな道に出た、この道で會する事を得た。路傍には赤き實と淡紫の實を着けた植物がある、奇しき花咲けるものもあつた、美しければこれを採集して帽子に挿す。緑陰滴る木立の中に農家がある、立寄りて茶を請ふ。素朴の老農夫がかれこれと待遇してくれた。山住の堀立小舍であるが、こゝに不相應しきは靜淨なる水が瓶に滿たしてある。この島にて不足なるものは水である、水は到る處に得らるゝも、何れも鹹味ありて馴れざるうちは飲するに堪へない、茶嗜の余には殊に感ずる。こゝの水は清潔で鹹味がない、これを賞讃すると老農は得意になり、杪羅の根より湧出するもので、この附近での自慢水であるとの事。初寢浦はこの附近であるとの事なれど、元よりこれといふ目的の無い逍遙であるから、扇浦方面に下る事とした。こゝを辭して廣き道を扇浦方面に向つて稍下ると、そこに又二農家がある、その前に杪羅の叢生するありて、細かな根もとより清水が湧出して居つた、それが青苔滑かな岩に落ち、螢玉を躍らして流れて居る、この小流に傍ふて緑翠幽陰の境を下ると、叢中の流れは鈴虫の如く、これに鶯語を和して天樂調をなして居る、余等はこれに耳傾けつゝ左崖を見ると、崖は斷壁をなして、それを纏ふ一面は皆指甲蘭である、指甲蘭は葉厚く緑美はしく、恰も巨鳥の美はしき羽毛を着けたるの感がある、若夫れ花候のときこゝに花着きたらんには、余をして美絶を叫ばしたであらふ。斷崖又現はれ、一は送り一は迎ふるのである。道は大なるも阪は頗る險はしく、得知らぬ喬木は谷を掩ふて蝉が鳴て居る。急阪極まると崖下稍平坦で、今迄斷崖を傳へし小流は、平地の草深き間を過ぐるので、さらさらと音を立てゝ居る。溪谷の間蕭條たる小舍二三ありて、柑橘は前庭に黄熟し、香蕉後庭に繁りて半ば家を蔽ふて居る。暗きまでに茂れる木立の中を過ぎ行くと、桑の木山や連樹谷を左方に、藍碧の二見灣は湖水の如く前に展開して、扇浦の白砂と人家と黒き森とが見える。龍舌蘭は青緑色を湛へ、赤土の路と調和して、見るから熱帶らしい感が起る。扇浦に着たのは丁度正午である、タマナ、濱桐の森の中に小學校があつて、生徒も教師も庭に出でゝ運動して居つた、素足の生徒が多いのは島的である。海岸一帶の白砂は雪の如く純白で、海は遠淺になつて、海水浴場として島中第一とのこと。扇村の海岸通りともいふ可き町に入ると、床屋、雜貨商店、肴屋等ありて旅舍料理店等は無い、海岸に接したる家は多く漁家にて、背面は一帶の砂濱である。この島は暴風多きため、海岸に接した村は皆風防林があつて、家にあつて海を見るといふ村はこの扇村だけである、地勢の關係上風のあたらぬのであらふ。こゝにて地圖を展らきて、巽浦に行く可く决した。扇浦より攀ぢ登る阪路はアラワレ峠といふのて、赤土の露出した鳳梨畑を左右に見る。松山氏は足袋のみにて草鞋を穿たなかつた、半日にして足袋の底を踏みぬいたのである。道には珊瑚礁の砂礫敷きつめたれば、氏は痛しとて大に困難を極め、路傍の芝又は畑の畦等傳ふて、小曲といふ一小部落に出でた、二三の農家に就て草鞋を求めたが終に得なかつた。小曲の村舍は果樹、香蕉、椰子等に隱れ、泉池に鯉の溌溂たるものもあつた。小曲の村端に到ると、そこは斷崖の頂にて、展望壯觀である。北袋澤の平地を繞らすに、一起一伏の峰巒を以てし、山脚皆斷崖をなして、恰も舊噴火口の外輪に立つの感がある。斷崖を穿ちて迂曲せる嶮しき阪路を下る、七曲といふのである、道の左右には濱万年青、林投樹叢生し、溪谷の間には香蕉數百本立つ。この阪路に於て夜明山にて拾ひし實を着けた樹を認む、石を投じて數箇を落し、松山氏は早速試食せんと、飢渇せし野獸が美食を獲し態を以て、大口に先づ一喫す、二喫に至らずして苦笑直に吐き出し、溪流に下りて嗽いしたのである、味は如何にと問へば、苦く澁く堪ふべからざる惡味であるとの事、道行く人に就て何といふ木の實なるかを聞くと、ヤロードの實にて食用にならずとの事、これを喫したりと云へばその人眼を圓くして去る。松山氏のヤロードの實を喰へしは談柄の一とつとなつた。坂を下れば谷川ありて橋を渡る。

カツサン氏鉛筆臨本の内

 こゝより北袋澤村である。こゝは島中第一の平坦にして且つ肥沃の地なりと。北袋澤は山を繞らしたる地勢恰も嚢に似たるより名附けられしものであらふ。橋を渡りて一農家あり、印度竹多く繁茂し、家の背後は數十丈の斷崖である。その家に訪問すると一老農あり、就て附近の地理名稱及び巽浦までの里數等を尋ね、一々その説明を得てこゝを辭するとき、常世の瀧の下に我が息子の家あれば立寄りくれとの事であつた。流に沿ふて平坦の道を行くと、對岸に二戸或は三戸の農家ありて、黄紅のカンナ等咲て居る。朝顔形の黄なる小花、雜草と混和し、石を纒ひ木を纒ふて咲て居る。この平地一帶の見渡す限りは皆甘藷畑である竹の如き甘藷は地を這ふて居つた。メリケン松の巨樹各所に立ちて、青煙の如き葉を風になびかせ、遙望内地の楊柳の如し。河に沿ふたる道は左右に別れ、左すれば時雨山なれば、吾等右折し、道の窮まる處より坂を上ると、そこに常世の瀑と稱するものがある。常世瀑とは如何にも床しき名にて、如何にも美絶らしく思はるゝが、岩壁に懸る水は瀧といふよりは滴りてある。若夫一朝降雨出水に際したなら、稍瀑布らしく思はるゝのであらふ。それよりも今吾等の辿り行く溪谷は面白い、左右皆斷壁にて水多からざるも、溪流其の間を流れ、杪羅はそここゝに立ちて、崖には指甲蘭が倒生して居る、仰げば高き斷崖の上に大家あり、蔬菜畑ありて鷄犬の聲溪谷に響く。谷の窮る處より迂曲せる道を上り行くと、そこにビロー樹數十立ち、寳來山といふ俗眼を喜ばする岩山が聳へて居る。その裏面に躑躅山といふのがあつて、四時白花の躑躅が咲て居るとの事。山の頂上は道又左右に別れ、左して進む約一丁、巽浦は前に開らきて、ビロー樹の間より二三の人家と、甘藷田とを見、巽岬鯨崎の聞なる一小灣は巽港てある。雜草に踞してこの間の趣を寫生し、こゝより歸る事とした。元來し道を戻り、北袋澤の砂糖製造所を見物し、小港の道を尋ねると、こゝより一二丁との事なれば、そこをも探勝せんと、北袋澤に諸溪流の合したる八瀬川といふに沿ふて行くと、數十の椰子樹に掩はれた閑雅な家がある、その邊より一帶の砂地で、河は入江となつて、江岸にはマギク、海岸イチビ等茂り、鏡の如き水に倒影して居る。殊には雙方の山脚こゝに迫りて、幽邃閉雅の一勝境區である。海岸に出づるとそこは砂濱で、南に袋崎北に象の鼻崎ありて、南北七八丁東西五六丁の一小灣それが小港である。海岸の漁家に就て、こゝより北袋澤を經ずして扇浦に行く道を尋ね、象の鼻崎の一角を攀ぢて山背を辿ると、小逕はこゝに消えて、雜草の間を北に向つて進む。山の半腹に甘藷田と小舍とを見出し、それを見的に漸く畑に出で、甘藷の中を分け行くと、畑の中に鷄が遊んで居つた。不意に來た我等に驚いて、けたたましき聲をあげて飛び出した、繋で置た牛は鳴く、小舍から人は飛び出る、大混雜であつた。吾等のそこに現はれたのを見て、何れも不可思議の顔をして居る、吾等の道に迷ふた意を通じ、扇浦の道を尋ぬると、何れも安堵して親切に教へてくれた。吾等は桃源の夢な破つたのである。險はしき畑道を登ると、そこは二子山の珈琲園で赤珊瑚の珠を着けたるが如く熟して居つた。そこより元來しアラワレ峠の墓所の前に出た。扇浦に歸つたのは五時頃であつた。無論大村行きの船は無い。今日の行程は約十四五里であらふ。身心共に疲勞して足は痛む、さりとて宿る可き家もなければ、勇氣を出だし、灣頭の明月を賞しつつ沿岸を迂廻して歸るも興多からんと、即ちそれに决したのである。
 打ち來る波の寄せては返す扇浦の自濱に、吾等二人の足跡を印しつゝ崖を上り、濱に出で、更に自浪碎ける崖を攀ぢ、雜草の中に踏み入りて困難を窮め、ロースードの暗き森に入り、バナナの畑に迷ひ、數十尋の斷崖を下りて境浦に出でた。朧なりし月はこのとき現はれて、波に碎ける金波に興を湧しつゝ波打つ際を傳ふて行くと、そこに人影がある、近寄れば松山氏の新知己である。この人の小舍は風防林の中にある。こゝに立寄りて暫く休憩した。扇浦より吾等の來たる路は本道でなかつた。こゝを辭して本道に案内さるゝと、それは頗る廣い路である。森林を出づる峠がある。月は明にして晝の如く、あたりに蟲が鳴て居る。境浦の森の中では犬が吠へて居る。峠は中々に長い、空腹と疲勞と交々至り、汗頻りに出づ。月を見ても虫の音を聞ても興が湧ぬ人間といふものは勝手なものだ、渇するときは本能に歸るもので、野獸と選む處はない、月の美も花の美も食足りてからだ、花より團子とはこの間の消息をいふたのであゐまいか。して見ると人間は食つて生て居るための人間か、こんな風に考へると、人間程つまらぬものは無い。こんなことを考へながら峠の頂に至ると、月夜の二見灣は大村の燈光を沈め、母島より歸航した兵庫丸や小笠原島丸が、月の碎ける邊に碇舶して居る、その光景は何共いふ事の出來ない美觀である、空腹も疲勞も忘れた、矢張り人間は喰ふ外に無形のパンも味ふて、野獸より異つた愉快の生涯をするものである。

父島旭平の森林(丸山晩霞筆)

 これからの下りは面白い程足が進む。暗い中をぬけると明るい畑があつて、又暗い森の中に這入る。屏風谷に來た。屏風を繞らした樣な絶壁の谷がある谷の入口が濱で、こゝにも松山君の新知己が居る、小舍の外で言葉をかけると、寄てお出でなさい。宿つてお出でなさい。と小舍の中からいふ。又來ますといふてこゝを去つた。月の奥村。月の清瀬。晝見たとは趣が違つて居る。隣濱の歸化人の家の前を過ぐると犬が吠える。大村の宿に着たのは十一時頃であつた。

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