日本の初夏[上]

鵜澤四丁ウザワシテイ(1869-1944) 作者一覧へ

鵜澤四丁譯
『みづゑ』第三十七
明治41年5月3日

 日本人は一日も茶を缺くことは出來ない。何人でも一日に何度となく飲む。極貧の人は強い茶は高價なので飲めない。しかし茶は舊日本に行はれて居ものとしては、比較的に新しい輸入物である。これは佛教と共に支那から輸入されたもので。最も其以前九世紀頃に多少の輸入はあつたのであるが、十二世紀頃までは微々たるものであつた。六世紀の印度の聖人ダルマは日本美術によくあるもので、あるものは葦の葉に乘つて海を渡る圖や、手を袂にして忍耐して座つて居る圖等で、これが茶の木の父としてある。ダルマが數年眠らずに祈祷を續けて居つたが、急に睡眠を催して來て、眼を閉ぢて、平和に眠つてしまつた。目覺めて已か虚弱を耻ちて、罪を犯した眼瞼を切つて地上へ投け捨てると、忽ちそれに根が生いて、世の覺醒を治る力のある灌木となつたとある。
 十二世紀には京都は日本人の中心で、宇治から奈良へかけて、銘茶の産地として聲價を保ッて居つた。茶の價値のある葉は春の新芽で、己れは五月十九日にこゝを過きッたが、丁度摘んだり、乾かしたりする際中であッた。茶の木は多くは覆なしで、二三尺の高さの、常盤の灌木で、女や小供が其中に仕事をして居る。草の大きな笠を被ッて、籠を持ッて伏んで居るので、他の物は少しも見えないで、笠ばかり日光に輝いて宛ら大きな茸が生いて居るやうに見える。日本のカサは種々な輕ひ材料で作ッてある、藁、竹の皮、燈心草、或は木の薄片なとで。カサは日蔽雨除として、首へ結びつけて、傘の用をする。夕方や曇天には被らずに傍へ置いて、木綿の手拭許を着ける。或時は頭巾のやうに被り、または鉢巻にする。「廣い帽子は品格を増す」とは言兼るが、笠は處々に變つた輪廓があるので風景畫には非常に風趣を添えるのである。
 一ポンド六七弗もする茶の出來る木は、竹骨に蓆の覆をして、日光も柔に當り、強雨にも葉の破れぬやうにして、場所も別にしてある。山の上から見下すと覆か餘程不思議なものに見える。覆の下には女共が芽を摘んで居る。路傍の小屋では忙しさうに茶の葉の種類別けをし、清らかにして居る。こゝには大きな製造場等はないので、各自の家で、焙じて、不思議な或は詩的な名を附ける。例令は玉露などゝいふので。
 この沃野を二大川が流れる、即ち木津川と宇治川で。また其他にも小さな川は澤山ある。何れも皆堅固な堤防がある。もしこれがなかッたらば、強雨に際しては細流全體が狂瀾怒濤を躍らして砂礫を流すので、一國皆水を以て覆ふことゝなる。谷川から砂礫を押流すことは非常なもので、其堆高くなつて居るので、流を見るには上へと上らなければ見えぬ程である。京都の郊外は長い間無趣味な道であるが、その両側に大きな池があッて、柳や葦が畔に生へて居る。網を持て小舟に乘つて居る漁夫等が居る。これは一寸と趣味があッて繪とする價値がある。辨當を食ふために「ツタヤ」といふへ寄るとネーサンが奥へ通した。(好い座敷と庭は大概家の奥にある)そして手を拍つと寄って來る金銀の鯉を見せてくれた。庭は少さな庭で、二十五尺四方を出でないが、そこに池もあり橋もあり、岩の山もあり、古い松の木もある。
 

彦根の寫生アルフレツド、パルソンス筆

 同じ日の夕刻に汽車で彦根へ着いた。宿は「ラクラクテイ」といふ茶屋で、大きな庭もあり數寄を凝らした家も澤山にある。己れは、上段の間といふて、普通の座敷よりは一段高い金襖の華麗な處へ通された。こゝは無論高貴の人の間で、昔時は大名井伊掃除頭等の宿られた處であらうが、己れはそんな處には居られぬので、池に臨んだ、庭園の見える一室を選んだ。庭に四つ目垣にからんだ藤が一ヤードもあらうといふ紫の花を下げて居る。こゝは見物人の群集はない。美麗な古い庭園ではあるが手入が屆かないので、木は荒れて、小路は雜草に埋もれて居る。嶮しい石の小山を見越して、昔大名の住んで居ッたといとふ城がある。小山は一方は湖で、一方は濠である濠には趣きのある木の橋が架つて、高地へ行く道には空濠がありてそれに一々橋があり、門があり大きな石垣がある。總て城の建築は皆これに似通ふて居る。たゝ今日はこの建物が餘り多くない、封建時代は必ず多かつたのであらうが、最へ壯麗な城は名古屋で見たのであつた、最近の大地震にも可なり搖震られたらうが猶依然たるもので、この銅の屋根の上には金の鯱鉾が市中を睨んで居る。西洋思想の輸入後の少期間は舊物打破主義が行はれて、處々の城を打破した、彦根の城は皇帝の内諭で其厄を免れた。今日では此反動で、古物保存といふ事になつた。城の土臺は大な石で、角の外は皆角石でない、それをモーターなしに丁寧に組重ねてある。不思議な構造は、木と漆喰で屋根や櫓を瓦や銅で茸いてあるのである。濠は老松に覆はれて、夏期は蓮が一面で、甚だ趣がある。己が城を見た日は、炎かれるやうに暑かつた。空には一點の雲もなく、琵琶湖と遠山が特有と思はれる、淡い淺黄の水蒸氣が和かにされて、靜に明に見えるのであつた。郊外にはクロバーに似た明るい紅い花で一面に覆はれて居る。あの草は秣には用ゐない。尤も用える家畜を飼はないので。しかしこの燃ゆるやうな美しい色彩は、思ふたよりも躑躅か見附からないに反してこれに慰藉を得た。己れはこゝに寫生を初めて、研究して居る間に、ボーイの松葉をこの近傍に躑躅を探させに遣ッた、松葉は敏捷な男で見樣見眞似でわれの呼吸を呑込んで居るのである。
 松葉は午後早く歸つて來た、躑躅はなかつたが、町の方に競馬があるといふので、それを見物に出掛けた。見物の場所は競馬の發足點であッた。競馬の場所は二百五十ヤードの河原で、仕組は總て西洋風とに相違して居る馬の發足に太鼓を用ゐた。それから裸馬に曲乘りなどをした。見て居る間はラクラクテイの家婢のオカツサンが來て茶や菓子等を鵬してくれて附添つて居てくれた、松葉のいふには、競馬は後には賭事で喧嘩があると聞いて、早く歸ッた。日本に居る間に喧嘩といふ事を聞いたのはこれが初であつたので、見たいとも思ふた。二日の強雨で道路が再び川の如くになッた。それか數日過ツて日本人の曲馬があツた。これも西洋のとは全く異ッて、馬上で日本の芝居をするやうなものであッた。
 此頃の天氣の日は全然壯麗なもので、暑さも暑いが、春の清新な氣が猶存して居る。時々雨降りや曇天がちよいちよいと這人ツて來る。が、庭園に接近した處に居ツたので、空に時間を費すやうな事もせなかツた。蓮の葉も池に出初める、燕子花は渚に咲出す、躑躅は花を以て覆ひ、薄緑の楓の枝は紅い木芽を吹初めた。時には降注ぐ雨がわが寫生傘に滴下るので、屋内に降込められた。オカヅサンといふ鳶色の天鵞絨のやうな眼を持ツたこびんぢよや其他の家婢共が、飽かずわれの所持品を見たり、スケツチ帖を繰明けたり、幾度となく質問をする。時には癪に觸はることもあるが、可笑しくもあツた。こんな事が西洋人に對する同情の結果でなくて、また文明人といふやうな考でなく、たゝ異ツた動物だといふ待遇を受けると思ふと、甚だ嫌惡な氣もする。

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