片瀬の一夜

中邨枯林ナカムラコリン(1877-1904) 作者一覧へ

中邨枯林
『みづゑ』第三十七 P.19-20
明治41年5月3日

 四月つごもり、晴れたる空のあまりにうらゝかなるに、ふとおもひたち、畫盤を肩に繪具をポケツトに三脚を右手に、我こそ畫家と云はぬ計りの洋服姿、歸途の土産の頗る心掛りなれど餅屋なればこそ★加減の非難は高けれ、彌次馬の如何に畫けばとて許さるべきを、よしさもあればあれ、一枚も畫き遂げずは唯破り捨てんのみと元氣附て、新橋より乘車、
 大船より下りて田畔をたどりゆくこと一里、筆とるべき手頃の景色も見えねば、失望しつゝ藤澤をもすぎぬ。片瀬川のこなたより水流に沿うてたどり、緑り色濃き松林を經て砂山にいでぬ。こゝは眺めいと廣く鵠沼の村家前に近く、駿河、伊豆の山々に霞がくれに見渡さるゝ樣云ひ知らねば、砂上に踞して筆を走らす。前の松原おぼつかなく塗りたりし折しも、過ちて水筒を外しつれば水は名殘なく砂中に泌み入りぬ。人里離れたるところとて水を求めんよすがなければ、うちつふやきつゝこゝを去る。
 流れに沿ふてなほ下れば江の島美しき色に見ゆ。船より下り柳株によりてうつす程、白帆腰越の鼻を過ぐ、まことに美しき一輻の畫圖なり。只わが筆の伴はざるをいかにせむ。
 龍口寺の裏山にのぼる途に、一のさゝやかなる庵あり。若き僧一人端然としてしきりに經を唱す。右の書棚に佛典五六かさね左の方には火鉢土瓶などうち並べたり。如何なる因果をかさとりけむ、われ若しよき腕もちたらんには、この僧の側面をうつして尊き信仰のいさゝかなりとも現はさむを、思ふもかひなき事なりや。
 山上の眺望いと廣く心ゆくこと限りなし。夕日花やかに箱根の峰の上より洩れて、富士は紫に、足柄、蒲原、龍瓜の群嶺紺青に匂ひたる、そもいひしらず。こゝに筆とりて塗るほど、暮靄蒼然として麓の星も見るがうちに影くれて、たゞ松籟濤聲近く達く耳を襲ふのみ。
 山を下りて柏屋に泊る。湯浴みして食事するほどの樂しさ云はん方なし、おもへば過ぎし年、修學旅行にてこの家に泊りしこともありき、片瀬饅頭腹ふくるゝ許り食ひつゝかしこここの室々騒ぎめぐりたりし事、うすく汚れたる一枚の蒲團につぶやきながらいつしか眠りたりし事、かゞなひみれば、はや十年の一昔とはなりぬ、げに老いやすきは少年の身、かの折の快樂の清くして甘かりし哉、往時茫としてさながら夢に似たり。
 自稱畫家は床上に横はりて忽ち歌人となりぬ、腰折の程はいはでもあるべし。
 なみのねは、ちかくきこえて、まさご路のまつばらいち里、うみいまだみえず
 しら帆ふたつ、おきのかすみに、ねむりつゝ、なみの音ひくく、日はくれにけり
 かはづなく、うのはながきに、とひよれば、世をわすれたる、ひともすみけり
 むらさきに、にほひし富士も、かげきえて、かすみはてたる、をちこちのさと
 ふしつけつ、歌ふほどに、うちよする濤聲のひまひま、蛙聲いとをかしくきこゆ。
 小やま田に、すだくかはづの、こゑすなりよせてはかへす、なみの音のまに、
 などうめくほど、ねむけさしていつしか、ぬばたまの夢路奥ふかくぞたとりいりぬ。
 曉四時ふと目醒む、窓外さながら驟雨に似たるに、窓をあくれば、はるはると見やるゝ渚に、うちよする波の色曙光をうけてほのぼの白みわたれり、朝のつとめの讀經のこえ、いづくともなくきこゆるも、處がらいとあはれなり。
 名物の饅頭土産にとて購ひ、肩にうちかけて七里が濱にゆけば日ははや出でたり。うちよする緑の男波女波幾重ともなくうちけかて、渚に散る雪の花の面白さに砂丘に踞して朝霧のうすれゆくおもしろき長汀曲浦を、とばかり眺めやりつゝ、筆とりいだすに近き濱に海草拾ふ濱の黒太郎を初めとして、オ槌頭、兒★頭、白雪頭の童どももの珍らしげに集ひたり。
 口々に罵り騒ぐものから、彼等はもとより心をくべき者にもあらねは見るに任せて塗りに塗れは、あやしき筆のゆくへを見てうましとめではやすもあるに、げにわが畫はかゝる人にこそ見すべかりけれと、思ひつゞけて自ら笑へば、童らも何事とも知らで又笑ふも可笑し。家をいづる時は、多く畫かんと思ひしかば紙も多く持ち來りしを、思のまゝに行かざる腹立たしさに、いまわが畫をほむる人あるを幸ひ、彼等に與へて悦ぶ色見んはせめてもの罪ほろぼしにやとふと心のさゝやくにぞ、この繪を分け與へんと云ふにわれもわれもとよりつどふもの十餘人、すなはち十餘枚の白紙をも悉く分け與へぬ、うれしくうなずく顔こそ愛らしけれ。
 極樂寺阪を越ゆれば由井ケ濱、濱へ集へる人おほくは外國人たり。妻なる人の手を小脇にかいはさみたる夫、波うち際を自轉車にてかけありく童、赤き紫の衣きて眞砂に椅子を並べてさゞめきあへる女の童、げに外國の濱と云ふべし。
 由井がはま、たつかげろうに、かげゆれて、おきつふなびと、いさりするみゆ
 むぎはあをく、ひばりはたかく、うたうなり、はるたけなはの、かまくらのさと
 松林をたどりて鎌倉宮に詣で、一朶の白煙をのこしつゝ其タベ都に歸りしが、その夜の夢に、われは、白波うちよする濱邊にたち、多くの天使にかこまれ乍ら、いと美しくたへなる畫をこそ畫きいだしたりしか。(旅衣より)

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