通信

保田虎太郎
『みづゑ』第三十七 P.22
明治41年5月3日

 今度は三月二十一日から二十八日まで學校が休暇で御座いましたので其の休暇を利用して旅行をいたしました、高野山下橋本の故郷へ歸りましたのが二十六日で、其間測量師に誤られ藥賣と呼ばれ万歳と嘲けられましたのみ其他に別に墜つた事も御座いませぬ、海抜三千尺以上の山、而も一面の燒山の中をたつた一人測量師か藥賣か萬歳の樣な風を致しましてヒヨコヒヨコと辿りました、そして畫が描きたくなりますと山から谷へ降りて何百千とも知れぬ老杉の間に三脚を据えました、此間芭蕉ではありませぬが寂の消息と、靈感を窺ふ事が出來ました。
 五日の中三日まで燒山を歩きまして、あと二日は谷川を辿りました、隨分苦しい仕事で御座いました。
 けれども肉體の苦痛は精神の慰安に比すれば一顧の價も御座いませぬ。
 其間隨分畫につきまして得た所も御座います。
 第一、私の部分研究の未だ足らぬ事は旅へ出て初めて悟りました、痛切に感じました、眼前に提供して呉れる好畫題をさて描かうとすると徒らに煩悶するのみで御座いました。
 それから之れは自分で實行致ましたので誤つて居るかどうかは先生に御判斷を御願ひいたします。
 瀧を描く時、其周圍の濡ふて居る感じを表はすにガンボージを用ゐました。
 雨景を描きます時、遠景の水蒸汽で模糊とした所は、ホワイトコバルト、インヂゴー、等を交ぜて塗つて置きまして、其上は水蒸汽の立つて居る所だけは油繪の筆でホワイトを以てコスリました。
(又其ホワイトの所へ前の色を塗りました)
 右は苦心して得ました事で御座います。
 そして參りました所は流石は山地だけありまして、宿(無論普通の人家)には皆圍爐裡が御座いました、そして昔の庄屋をして居つた人などがありまして御自慢の景文の鹿の繪などを持ち出しまして、圍爐裡ばたの荒席の上で、或は古人を語り、明治維新前後の事などを聞きました。
 來る四月二十五日頃和歌山縣下各學校の圖畫成績品展覽會か開かれます、それで只今皆其出品を描いて居ります。
 特に私共は師範學校の一部として五月會だけ獨立さして貰う事にいたしまして、特別にかためて出品いたす事になりました。一寸御らせいたします、
(會場は當校)
 四月六日
 和歌山縣師範學校
 保田虎太郎

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