寄書 我水彩畫の經歴と希望
忠地英雄
『みづゑ』第三十七
明治41年5月3日
僕は「みづゑ」第二十六號より愛讀して居るが、何時も早く次號が見たくてたまらん大下先生の靜物寫生談は僕等の如き淺學淺識の身に取つては實に有り難い、「みづゑ」は藝術雜誌中粹の粹たるもの吾等の好指導たる雜誌なり。藝術にあこがるゝ身となつて以來茲に三有餘年、しかも其前一年は無意識無意味であつた、否寧ろ水彩の水の字も知らなかつた。今から考ふれば實に憐むべき者であつた、其當時三宅先生の水彩畫生畫を見て大いに感ずる所あり、直に是を臨畫すべく用意した、二時間計り困苦しておぼつかなくも一枚の畫が出來た。どーかこーか似て居る。アヽ其時は非常に嬉しかつた。嬉しさの餘り直に此一枚を持つて友人にほこる、友は何れも其技の優れるを嘆し且つ賞した。僕は欣嬉滿面と云ふ有樣であつた。で臨畫の寫生にもてはやされた己が身は今度は一歩進んで郊外寫生としやれこんだ。じき近くの鎭守の森を描くべく出かけたのはたしか三十九年の九月の秋であつた。森羅萬象皆秋色深くして一として畫題ならざるはなしだ。ブラウンの色した枯木と枯木との間にグリーンの松の見ゆるは其色彩の配合調子實に得も云はれぬ程であつた、此良景に接した自分は何處より筆を下すべきかに一時躊躇した、地平線はどの邊に描くものか、形は如何にして取るべきか、色彩の配合は如何に爲すべきか、一向も二向も無頓着であつた。まあどーかこうかして三時間もつぶして畫らしきものを描いた。今其畫を取り出して見ると實におかしくてたまらん。否おはづかしいもんだ地平線はずつと下へさがつて居る、樹木はまるで(ウチワ)の樣だ彩色も何もなつたものではない、今はこんなもんでは一刻も承知は出來ぬ吾描き度も描く事が出來んと云へば其連想として果して上達したと云ふ事が思はれる。いな實際上達したんだ、眞に上達した。其れは何の御蔭であるかと云へば洋畫講義録と「みづゑ」の御蔭だ。山間の僻地に住み良師に乏しき己が身に取つては此二雜誌は實に藝術の生命である洋畫家の傳記を見る度毎に念頭に浮び出るのは第一に東洋一の大美術家たらん事である。大美術家たらんとの希望が終夜余が頭腦に充滿し循環して居つて一刻も去る事が出來ぬ。鳴呼大美術家たるかな。古來偉大なる成功をなせしすべての藝術家の傳記は皆刻苦勉勵以て螢雪の功を積みし者たり、彼等は生れながらにして、大藝術家たり大美術家たりしにはあらず。畫界に其威名赫々たりしミレイを見ずやチヽアンを見ずやレイノルド曰く「誰にても繪畫に長せんと欲せば其全心を之れに集注し終日終夜他を顧ることあるべからず」と是れ實に金言と云ふべし。天才は天賦なり完成は人間に有り故に天才の如何に關せず耐忍と勉強とが成功の秘訣なるを心に銘じて以て自修自養怠るなくんば、大美術家たり大藝家たるを期して疑はざる所なり。讀者幸に健全たれ