學資金と費ひ先


『みづゑ』第三十八
明治41年6月3日

▲東京美術學校此學校は參考書といふものは多くは要らない。他の學生が讀書して居る間に彼等は自我遊離の状態てカンパスに向つて繪筆を握りモデルに向つて塑土を練つて居る、是に費す金が中々少くない。一番少くないのが圖案科で洋畫科が最も多い。ザツと見積つてもカンパス、繪具を始め其他の道具が月々五圓では足りぬ。少し勉強したり大作でも遣ると十圓位は要る、今一つはモデルだ、目下の標準が男の裸體で半日五十錢、女で四十錢、一日となると少し割引になる、着た儘と半身が半日二三十錢の所で學校の暇々にやるのだから何うしても半日宛一週間位を費す、迚も一人では遣り切れぬので五六人共同で割當で拂ふやうにしてゐる。又中には夜間白馬會の研究所にも行く人がある、其處は入會金三圓、月謝二圓の定めだが夜間許りなら一圓足らずで濟むさうである。此外年二十圓の月謝に同二圓の校友會費を學校に納める、夫に下宿料を加へて月平均二十五圓乃至三十圓あれば澤山だ。此校の成績は一目して判るものだから誰に聞いても各自の競爭と研究に追はれて迚も遊んで居る暇はないと云つて居る、勿論多少の除外例はあるが。それから此校の生徒は二三年すると内職が出來る、其重なるものは繪葉書、依頼された肖像畫の報酬、雜誌のカツト等で此收入が中々馬鹿にならぬ。圖案科の如きは學校に居る間から諸種の商店の顧問となつて月給を取つて其金を學資として居るものもある。此處等は一寸他の學生と違つて居て面白い。但し内職の上手な男が果して不朽の作を出すか何うかは保證出來ぬ。(東京朝日新聞)

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