太平洋畫會出品の水彩山岳畫評

小島烏水コジマウスイ(1873-1948) 作者一覧へ

小島烏水
『みづゑ』第三十九
明治41年7月3日

 富士山二九一、二九三、三〇一、吉田博氏作
 二二九、吉田ふじを氏作
 二七七、大下藤次郎氏作
 二〇一、三三八、磯部忠一氏作
 山岳畫といへば、古來から富士山に限つたやうであつた、今度も水彩山岳畫の中で、前記七點が富士である、尤も此七點を分類すると、吉田二氏の作のやうに、富士山そのものが畫題なのもあり、大下氏の作のやうに、湖水の前景と背景の富士と、孰れに重きを置くのか解らぬのもあり、磯部氏のそれの如く、むしろ前景が主眼で、富士山は有るか無きかに、片隅に寄せられて、雲で塗つても、さまで差支へがなからうと思はれるのもあろ、それはおもに、寫生の立脚點とした、土地の關係から來てゐるやうである、例へば沼津からでは、富士が愛鷹山を踏まへて、向つて左に寄るし、吉田氏のやうに富士山の直下で寫しては、富士に壓倒されるやうに、覆ひ冠されるより、致し方が無いであらう。
 吉田博氏の富士山は、三作孰れも同一地點、或は極めて附近の地點から描かれたらしい、向つて右に愛鷹山の餘脈を交ぜぬところで見ると、原驛の西端から、鈴川吉原附近までの間と見た、或は浮島沼から見られたらしい、二九一は「富士の朝」としてあるが、東方の雪の白んでゐる外に、朝の感じが、どう出てもゐない、水と空の説明が物足りないからであらう。
 三〇一の『冬の富士』も、何だかふやけてゐる、冬の富士は、もつと嚴粛な、緊縮した感じを興へるが(少なくとも私一人には)、この富士は綺麗で、色玻璃的である、肌さはりの、一體に柔和なのは、技工的には面白く見られるが、どうも見るための冨士山に出來上つて、奈落の底から、雄たけびと共に、空間に跨がつて峻立する神山とは、思はれない、右の傾斜の寶永山を、冨士山の一員(a menber)として扱はないで、富士そのものと一體(a bedy)として、こなしてゐるのは、古今殆んど凡べての畫家を、共通しての觀察の誤謬である、富士山は、决して單獨な一孤立火山でなくて、山腹以下には、四十足らずの側火山が匝ぐつてゐる、それが富士山といふ雄大な立體に配して、遠くからは目に立たぬほどに彫刻されてゐるが、その或物は、分明に判然と仰がれる、側火山を山の懷に控へてゐる富士山を、動物に喩へると、腹の袋に數多の子を抱へてゐるカンガルー獸といふ格である、殊に寶永山の如きは、標高二千五百米突、深さが三百米突もある、所謂新内院の爆裂火口は、遙かの遠くよりは知らず、御殿場や、原、鈴川邊では、鮮明に見える筈である、勿論山岳(のみならず凡ての自然を寫せる)の繪畫は、地質學その他の科學的智識を、布衍して搆造するのではなく、どこまでも、肉眼に見たまゝを、描くのであるが、富士の寶永山のやうな、少し注意して觀察すれば、對壁の岩脈が、屏風立ちになつてゐるのが解るものを、岩の尖りだけにしか描かぬのは、造化創造の原作を、刷毛先で誤譯したと言はれても、致し方があるまい、縮譯、抄譯、意譯、補譯は、作家の自由手腕に待つが、誤譯は、いかにしても許されない。
 二九三の富士山は、流石に大作だけあつて(且つ今度出品の富士山中では、第一の佳作である)寶永山の新内院の描き方は、側で見ると、作者の細心が覗はれる、それから二つ塚の側火山が、先づ惡るくはない、西の大宮方面の傾斜に、塒塚の瘤起を描かずに、曲線を引き落しにしただけに止まったのは、作畫の場所からは、實際見えなかつたのであらう(浮島沼からは、確に見えるが)富士の絶頂は、よく出來た、左肩の劔ケ峰の隆起も、精確であるし、山上から幅射線を引く筋々の、兀起に映じた夕日の泌みわたるやうなのも、手際であるが、東面寶永火口に影の屯ろしてないのは、いかゞかと疑はれる、前景の蘆が、狼籍してスワムプ的止水の靜けさも、意味ありげで、何物かを思はせる、東の裾野の黒松の森に、夕靄の立てこめたのもよい、一體に調子を出すのに苦心されたらしく、山足から裾へかけての段だらを、糢糊の中かち綾に浮かせた技術の巧は、確かに比ひ少いと見受けられた。
 さて五六歩退いて見ると、どうも富士山の頭が莟み過ぎ、西の傾斜も、少し強過ぎるやうで、全體に不快な藍の克つた色調が、陶器の燒きつけを見るやうで、厭味が出てくる、傍で見ると巧みで、やゝ離れて見直すと、綺麗過ぎて、いかにも不自然である、何故色を寢かして使うのであらう、併し有數の佳作であることは否まねい。
 吉田ふじを女氏の二二九『富士の夕暮』は、正面の富士とはいひながら、山腹から裾へかけて、短か過ぎる、寶永山の雪は、例の魚峻な絶壁に辷べり込んでゐるから、こゝだけ雪の多量と、雪で凍ほる傾斜の急とで、特に別種の色調を呈してゐる、そこへ著眼して、雲の色を書き別けやうと試みたのは、流石であるが、折角の雪が、三角形の貼紙をしたやうに、不調和に目立つてしまつたのは「凸起した岩角に雪が積もつた」位にしか、觀察しなかつたためであらう。
 大下氏の二七七『蘆の湖』で、比較的最もよく描かれたのは、中景になつてゐる、湖畔の外輪山で、この前の赤城山の湖水にもあつたが、一千米突位な小火山彙の調子は、疎らに出てゐる、これあるがため、前の湖水も、背後の富士山も、引つ立つてゐる、併し湖水は平靜はあるが、火山湖とまでの感じは、私には起らなかつた(もしその感じがあるとすれば、周圍の外輪山に連つて、第二位に生じる堆理上の結果で、瞬間のタツチから起る感じではない)富士の雪は、力を用ひないで、能く現はれてゐるが、標式的圓錐形といふだけで、駿東方面の富士といふ感じは乏しかつたやうである、要するに外輪山第一、湖水第二、富土山第三といふ出來で、今度大下氏の出品された、幾多の愛すべき小品中で、この蘆の湖の作は、中以上に位するものとは、どうしても思はれない。
 磯部氏の『沼津の富士』の二作は、同じ人の外の水彩畫に比べて、劣るとも優つては居らぬ、二〇一の富士山の雪は、平地の雪と違つてゐない、且つ岩質も、熔岩から八朶に積み上げられた富士ではないやうだ、いかに富士の觀察に不便な沼津から見たにしても、寳永山を、俗にいふ烏帽子岩もしくは筍岩的の瘤起に仕上げたのは遺憾である、吉田氏の二九三の富士山を參考せられたい、三三八の前山は、多分愛鷹山と見たが、植物性の色彩がなくて、兀々し過ぎるとおもふ(愛鷹山は、森林で埋まつてゐる)雪間の富士の岩石の色彩が、前の低山の色彩と同調で、且つこの二山の間隔が、適當に保たれてないやうだ、笠雲は比較的によく出來てゐるが、决して巧みとはいへない、向つて左の前景に稻村塚やうの堆起があるが、何物か解らなかつた、氏の富士以外の外には、純清な感情の迸つてゐる小品があつて、氏の繪は好きであるが、富士山は最も拙な出來と思ふ。
 

カツサン氏鉛筆臨本の内

 野尻湖二三九中川八郎氏作
 畫題は『嚴寒の後』としてある、自然主義派の小説にでも、つけさうな名だ、先づ氣に入つたのは空だ、北國の凍つてゐる、泣き出しさうな感じが、ジッと胸に泌み込む、殆んど正面の、辨天島の雜木林が、裸になつて寒さうに骨立つてゐる、土の崩れて、赭く露はれてゐるのもおもしろいし、雪が嵩張らないで凝り固まつてゐるのも嚴寒にはふさはしい、湖水の凍りが半ば結び、半ば解けた感じもよい、水彩畫と油繪との違ひはあるが、雪の中では同じ人の「寒村」や、吉田博氏の「北國の冬」よりも、精錬されてゐる、湖畔の丘陵も、第三紀層地の低山らしく見えた、これは山岳の繪畫とはいへぬが、山岳地の繪畫として、加へて置く。
 天城山二〇四茨木猪之吉氏作
 油繪で見せる、いつもの魔力が、邪魔になつて、奇怪に出來上つてしまつた、最も目に立つ中央の石塔が、柔かくてフワフワしてゐる、人物も作りつけた案山子のやうで、動く氣色が見えない、向ふの山の煙が、白過ぎて、峽間の殘雪と見紛ふ、遠山を壓してゐる雲の調子は、先づいゝ、左の小川も、水が流れてゐるとは思はれないで、硝子を張つたやうだ、部分々々ではこのやうに失敗してゐるが、荒癈の天城山といふ、不氣味な感じは、どことなく溢れてゐる、死海に水が湛へてゐるといふ格で捨てられない、曲りなりにも力で推しつけて、ローカル、カラアを出さうとしたやうな作で、今一層吹つ切れたら、見るべきものが出來たであらう、要するに、此作は、感情で見せやうとして、それまでに到らなかつたので、同じ作者の油畫よりは、劣るやうだ。
 淺間山三〇七藤島英輔氏作
 高原の前景はよいが、木立がこの高原を代表する唐松ではなかつた、それかといつて何の木だか解らなかつた、噴煙が尋常の水蒸氣に色をつけたゞけで、硫化水素を含んだ煙ではない、山を一寸でも、離れると、直ぐたゞの雲になつてしまふから惡るい、淺間の形式は、いかに霧があるにせよ、輕過ぎる、
 薄日の妙義山一九〇丸山晩霞氏作
 碓氷川に面してゐる火山岩屑の岸は、よく研究されたものだ、石コロも、多摩川砂利と一つにならぬだけの、注意はあつたやうだが、水の流れが淺瀬の川としては、重い感じがする、妙義の山勢は、立派に描かれて、且つ刺激性の強いところがある、左の集塊岩の形相をあらはした金洞一峰も、巧みに出來てゐる一體妙義山の岩組みそのものからして、コセコセした集塊岩から成り立つてゐる故からでもあらうが、重潤の筆を弄せられた跡が、畫面に殘つてゐて、スツキリした調子が缺けてゐるやうで、何となく氣が重苦しくなるのが、此作に向つたときの感じだ、山岳地に特技を振はるゝ丸山氏の作としては、傑出したものとは見られない。
 甲州駒ヶ嶽二七九大下藤次郎氏作
 山の輪廓は整つてゐる、甲州駒ヶ嶽とは、誰が見ても領かれるのみならず、塊状岩の特性も、その山稜に伴つて、先づあらはれてゐる、大下氏には山岳の中で、花崗岩の山が、最も適してゐるかと思はれる、その理由は、岩石の中で、花崗岩は石英とか雲母とかいふ、晶結鑛物が主成分になつて、空中の氣海に美はしく沈みかへつてゐるかち、山としては、高低共に、靜かな感じがする、火山のやうに低くても荒々しい、刺激の強い感じを與へない、靜流や止水を好んで、この方面に特技を有せられる大下氏の畫題には、ふさはしいと思ふ。
 この繪を見ると、前景には蒼黯な立木があり、光線を受けて黄味の克つた草原があり(この草原が火山の裾野にならぬのはよい)石の露はれた小川が、白く屈折して流れてゐる、山の麓の對岸からは、淡い烟が、直ぐに立つてゐる、風のない靜かな夕であると見える、友人高頭氏は、今度の數多い水彩畫の烟の中で、一番この烟が氣に入つたと言はれた。
 併し駒ケ岳の形式と輪廓が、いゝにしても、先づ搆圖の上から言つて、殆んど全紙を山體で塗り潰したのは、山の面積の弘いだけに、單調になり過ぎる、山岳の夕は、空の調子一つで持つてゐるものである(空間に頭を擡げて所謂天に接してゐるだけ)が、あれ以上に空を高くしても、をかしくなるだらうから、前景を、も少し何とか工夫したかつた、それから山で紙面を一杯にした割合に、山の色が、頭も、山腹も、裾も、一向見分けのつかぬほど、變化の無いのは、どういふものか、駒ヶ岳のやうに海抜三千米突以上もある山になると、山巓は悉く岩石で、且つ花崗岩は剥削作用が特に烈しいので、地衣も生えない、山腹以下の針葉濶葉樹林でギツシリ埋まつてゐるところとは、確かに色調に一種の漸減があると思ふ、日の出にせよ、入日にせよ、早く照らされ、おそくまで光るのは、山の絶巓である、この圖では、赤い光りを認められないが、空の白さと、樹の色では、殘光が充ちてゐると見られた、頂の岩石を露出して空に接したところは、も少し透明質を含ませたい、それから駒ケ岳のやうな深成岩の山は、最も硬い感じを起させるものであるが、花崗岩山として形式の整つてゐる割合に、力が羽くて、甲斐駒といふ認識はあつても、感觸は充分に出て來ない、かう思ふのは、私一人では無いやうであつた、畫面に一點衒耀の氣のないのは、いつもながら嬉しかつた。
 

カツサン氏鉛筆臨本の内

 總評
 繪の具筆、一本持つたことのない私の、素人評は、おそらく作家に、何の益するところも無いであらうが、只だ山岳を愛するものの一人は、山岳の繪畫に對して、斯く觀察したといふことだけの興味を頒つたまでのことである、私の考へでは、人間を描くのには、デツサンの研究が是非必要である通り、山岳にも、解剖を疎かにして、生氣ある作品は得られないと思ふ、私は近ごろ頻繁に開かれる繪畫展覽會で、全山悉く水成岩のヒダから成立した、富士山を見て、よほど珍らしいものに思つたことがある、勿論畫家の觀察するところは、或意味に於て吾人が天體を仰ぐごとく只だ外觀的の事實だけで宜しい、槌と顯微鏡の必要は决してない(有つては惡いといふ意味ではない)から、あまり細條に亘つて、智識のために搆成的に描くのは宜しくない、併し自然物體のうち、人體や、植物や、動物の、組織搆造が詳しく知られてゐるだけ、それだけ、山水のそれは、閑却せられてゐるかの傾向が、今でもありはしまひかと疑はれる。
 今回の作品のうちで、岩石を比較的精確に描かれたのは、吉田博氏の富士と、丸山氏の妙義山で、前春は精緻な上に一種の情調が出たが、「自然の表現」としては缺けてゐる、後者は忠實に自然を描くといふ心がけがありながら、重濶疊抹に陷つて、「生きた」ところが少ない、大下氏のは、やはり水とか、樹木とか、丘陵とかいふ前景が克つてゐるやうで、山岳には力の表現が乏しいのを憾みとする、この他にも山岳畫として可なり、見られるものが多かつたが、さまではと、省略することにした。

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