日本の初夏[下]

鵜澤四丁ウザワシテイ(1869-1944) 作者一覧へ

鵜澤四丁譯
『みづゑ』第三十九
明治41年7月3日

 二人で夕飯後には町を散歩して芝居や商店を見て歩いた。オシゲサンは大料理方で、夕飯には種々新しい異つた形の食物を作つて喜はしてくれた。朝と辨當は松葉が準備してくれる洋食ですました。麪粉やウイスキーは町で求められるし、牛は彦根で毎土曜日に屠殺するので、さしたる不自由はない。僅の間ならば舶來の鑵詰でも事は足りる、が仕事を終つて熱い湯に這入つて、フラネルの衣服を木綿のキモノに換えて、床に坐して、日本料理の皿に盛つて來るのを味ひながら字書を相手に大根の意味を解するのもまた一興であるオシゲサンの料理で好かつたのに、鰻を醤油で料理したもの、豆腐、筍、菊の葉の牛酪で揚げたもの。百合の球根を砂糖で煮たものは一寸と食へる。米と野菜と煮たものや、奇妙な野菜等は厭であつた。己が水彩畫中にある大きい丸い葉が澤山あつて、葉の中央に暗い穴が莖へ通つて居るのがある。通例前景植物として知られて居るもので、これが午後に刈取られたと思ふと、その莖を煮て夕飯の膳に上つたが、我慢にも食へなかつた。夕飯の膳が出ると、タカキかオシゲサンがわれの前へ膝まづいて、酒や飯をやつてどんな風をするかに注意して居る、するとわれの飯の終にはもう澤山です、日本は汚くて醜であるといふ處で、英國は汚くて醜ですが、日本は奇麗な國ですと常にいふた。それが東洋の禮儀であるのだ。

アルフレツド、パルソンス筆

 それからソーキンが煙草入と煙管と少さな火箱を持つて這入つて來て、われと盃のとりやりをしてから、坐つて煙草を喫み、會話をする。或は井伊侯拜頒の茶の湯道具を出して、抹茶を立てゝくれる。茶の湯は普通の茶を呑むのと同一にすべきものではない。實に饗應奇妙な儀式であつて、到底其道に通ぜぬ外國人には評價し能はざるものである。一擧手一投足皆規則があつて、會話も主人の美術や詩歌に關した事に限る。釜、茶碗、其他の什器が皆歴史的か美術的の興味があるもので、茶碗の如き普通古代の陶器である。茶の湯の儀式は二百年以前から變はらないが、細目の異なる流派は澤山にあるのである。互に煙草を愛喫するので、共に大いに同情も仕合つて居つた。しかし双方の煙草を喫合つて試ると、やはり西津煙草が可といふ事であつた。寺の老人はわれの寫生を見て居るのを嫌惡がるのを知つて居るので、多くは己が室に居つて、已れの庭園や小丘の石佛を寫生するのを遠くから見て居つた。時々われの煙管に煙草が空うなッたのを見ては、他の煙管へつめて、マツチと共に持ッて來てくれる。この時は暫時免しを得て、われの背越に寫生を見ながら、一寸と會話などもするのであッた。
 夏が來て、陽氣は暑くなる、蟲は増々多くなる。日中は蝶や蜻蜒が非常に澤山で、夜は稻田から火取蟲が酷く飛んで來る。それで蚊が居るので、蚊帳が入るのである。日本の家には居間と寢室と別にない。臥床の時が來ると蒲團を持込んで來て、もし蚊帳の入る時節にはそれを釣る。蚊帳といふのは緑色の薄い織物の網で、四隅で釣るのである。日本人は首を休めるに少さな木の枕を用えるが、それには何うしても出來なかつた、が後には上着や蒲團を巻いて、長枕のやうにして寢ることにした。
 わが事に田舍新聞が數節を費やしたので、わが動靜を伺ふために、寺を訪問するものが、數えきれない程であつた。其中に彦根切ッての唱手であるといふ紳士があッた。一寸會話をしてウイスキーを出して、唱の形を聞きたいといふた。歌といふのは佛教の僧侶と神徒の神寓歌である。外國人には歌の調子などは少しもないやうに聞える。巧妙な言葉振りがたゞ嫌惡な響に聞えて、滑稽であッた。美術好の友人は午後の時間を可い加減に費してしまッた。唐銅の大花瓶へ躑躅の枝を垂したり、掛花瓶へ燕子花を生いたりして。そして、挿木の葉を巻いたり、鱗形を離れた枝を剪ッたりして。
 寺の家族は今養蠶で忙しい。少さな黒點のやうなのが、漸々に生長して、桑の葉をやるせわしさ、繭となるまでには非常の繁忙、オシゲサンは甚た心配な時で、重な收入もこれに依るのであるから。繭は一石三十圓位であるとの事。
 わが室の下の池には鯉や龜の子で一ばいで、われの影を見ると、食物を貰うとして、爭ふて寄りて來る。古龜等は憶病であるので、極温い日にのみ見るばかり、石の上で甲羅を干して居るので、側へ寄ろうとすると、周章てゝ水中へ滑込む。龜が或砂地へ上ッて、卵を生んで、穴を埋めて居たのを見付て、それを生捕にした。此日は蛇も一匹捕ッた、大きさは可なり大きくて、害はしないのであるが、什麼にも不愉快なものである。日本には唯一種の毒蛇がある。少きな鳶色の動物でマムシといふのである。此他の蛇は日本では幸運を下すものとしてあるが。マムシは殺して皮を剥いで、體を于して、藥劑として貯蓄する。
 こゝに數ヶ月を夢の如くに費したが、賢くも日本政府は旅行者の怠惰を見越した規則を作ッてあるので、餘儀なくも神戸に歸ッて新旅行券を得なければならないのである。さればわれは、こゝの朋友や、羅漢や花未だ紅に、苔蒸した躑躅の木や、また夕陽の琵琶湖を見んが爲に毎夕上ッた高臺等に告別の辭をのこして、再び汽車に乘ッて、普通の場所へ歸ることゝなッた。
 寺を去ると俄に雨が降ッて來て終日止まなかッた。が車から見るものが多くて、大いに慰籍を得た。頃は田植だ甚だ多忙の時、田は男女で埋まる程で、泥のなかへ膝を沒して、笠着けて、藁の衣服や油紙、簑等を着て雨を除けて居る。農事中では、それ程汚濁い、骨の折れる仕事はあるまい。仕事は鍬や、重い四角な熊手であるので、尤も牛や小馬に曳かして耕すのも見た。その背には一寸と屋根を作ッて雨に濡れぬやうにしてあッた。田は大麥や菜種の收獲を了ると直に、鍬で起して水を灌漑して、土を泥にして、熊手でならすのである。稻の苗は苗代に密生してあるのを、田が植えるばかりになると、引抜いて、根を洗ッて、束にして、泥土の中の處々へ投げる。それから男女がそれを指先で泥中へ植えるのであるが、その植えるのゝ早いこと、動かずに八九株位を植える。さて植上げた田を見ると全然淡い緑の霧のやうに見える。境界の畔には豆や野菜を植える。これが爲に地所の廢りは少しもない。これが六月の十八日、梅雨期の初めで、旅行者殊に風景畫家の爲めには甚だ不愉快な時節である。(完)

この記事をPDFで見る