ピーター、デ、ウイント[六]

青人
『みづゑ』第三十九
明治41年7月3日

 一八一五年より一八二五年迄で、ウイントは水彩畫會に出品せざりき。一八二一年に此の會が再設せられし時に、階級を踏まずして、入會を勸誘せられしかとも、辭しぬ。此の間に氏が作品がローヤル、アカデミーに二度現はれぬ。一八一九年にオーターミル、イン、ダービーシヤイアを出し、一八二〇年にはヨークシヤイアのホルトン城を出陳しぬ。一八二五年に再び水彩畫會へ入會して、デ、ウイントは絶えず出品しぬ。此年より一八四九年まての間に三百五十九枚の作品を出しけるなり。この總てが畫題を英國に取りしにて、有名なりき。氏か大陸に寫生旅行を試みけるは、唯一度にてありき。そは一八二八年に夫婦にてノルマンデーへと旅行しぬ。デ、ウイントはこゝの風景を餘りに感佩せざりしかば、ノルマンデーの水彩畫は氏か完成畫中に入らざりき。氏がウエールスの風景はやゝ僥倖なりしかども、デビツド、コツクス等との競爭にて、氏か作としては第二流のものなりき。デ、ウイントの作品中最良なるものを見んとならば、氏の愛着したる寫生地にて作製したる繪畫を研究せさるべからず。愛着の寫生地とは、ヨークシヤイア、リンコルン及其附近ダービーシヤイア、クライストチヤーチ等なりき。氏は英國高官者の知遇を得き。彼高官者は氏の親友なり又保護者なりき。晩年の夏には氏は此高官者諸氏の諸國の家を訪問して寫生しけるなりけり。
 デ、ウイントは出版事業者としても、多忙なりし事は、普通人の忘れ居る事なり。ダブリユー、ビー、クツク著『英國北海岸風景圖譜』には氏の手に成りし挿畫六枚ありき。就中重要なるものはゼ、アンダークリツフ、アイル、オブ、ワイト(一八一四年六月)ブラツクガング、チヤイン(一八一六年四月)にて其他四個は本文中の挿畫なりき、氏は又仝氏著「テームス」には一八四年五月より一八二九年二月一日までの間に十二枚の畫を寄附しぬ。ウエルリントンの要塞に從事せる少將ウエリアム、ライト氏の著シヽリー小品より六十二枚を描きぬ。これ等の畫は彫刻良好にて、一八二三年に四ッ折大の冊子にて、「シ、リー風景」と題して出版しぬ。其他二册の挿畫を描きぬ。そはジエー、イス、スタンホーン著「オリンビヤ」と北佛蘭西の風景重にローンの景一八二五年に出版したるものなりき。こはデウイントがオクスフオードのオリエルカレージのジヨンヒユースの小品より二十四枚の挿畫を描きけるなり。デ、ウイントの著作なる「古水彩畫會の歴史」に付てはローゲツト氏の注意に負ふ處ありき。此著は畫學生の愛讀して措かざるものなり。

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