寄書 雜感
MO生
『みづゑ』第三十九
明治41年7月3日
○ワツトマン紙、木炭紙などを貯へて置くのに新聞紙で包むと永い内には紙に印刷文字のインキが移つて、いざといふ場合に彩料を受けないで困る、
○水彩畫を初めてから得た興味は澤山有るが繪畫に對する鑑賞力の昂まつたのも其一つである、展覽會が開設されると新聞で批評をする、批評を讀むと實物が見たくなる、行つて見ると自分の觀察と新聞紙の批評と異ふのがある、何れか是か非かを疑ふてゐる、『みづゑ』に幹部諸先生の批評か載せてある、讀んで行くと自分のも稍諸先生のと似てゐる、此の時は愉快の感が起る、自分の眼が正しいのを嬉しく思ふ。去秋の展覽會場で二人の紳土が陳列の作品をあれこれと探してやがて「池邊の朝」を買はふと相談が定まつた、傍に居た僕は畫面は小さいがあの千曲川を買ひ玉へと注意したかつた。
○口繪の三色版でも石版でも原畫の眞を傳へることは不能であるといふけれど、一度實物を見てゐると同一の筆になつた繪ならば三色版でも石版でも稍其筆致を知ることが出來易い、されば展覽會は可成見物するが宜しく、見物の出來兼ねる人は肉筆手本の一二枚を見ることが肝要である
○百聞は一見に如かずといふ語があるが繪は眼に見たばかりではいけぬ、是非描いて見なければならぬ、十枚の手本を見るよりも一枚寫生をした方が腕が上がると思ふ
○ラスキン曰く
“If you can paint one leaf, you can paint the world.”
○麥畑は穗の出ない前が面白い、一畝一畝に緑のカーブが長くつゞいてゐる日光を受けると白味を帶びた緑色であるが、それを裏面から見ると非常に黄勝ちの強い緑色と見える、
○菜の花でも早咲きと晩手では色が違ふ、早咲きは白味を含み晩咲きは黄が強い、これは晩手の花が咲頃は新緑の侯で周圍が黒ずむのと、菜自身の莖も幾分紫紅色を帶びてゐるから對照でかく見えるのかも知れぬ
○麥畑の中に牛小屋があつて屋背に松林がある、麥は緑、小屋は褐色松は暗緑であるが、前景の麥畠の一方に菜の花が咲いてからは小屋が淡紅を帶び、暗緑の松樹は一層黒く見えて來た、補色の關係だらう