イースト氏寫生談 色彩
石川欽一郎イシカワキンイチロウ(1871-1945) 作者一覧へ
石川欽一郎
『みづゑ』第四十
明治41年8月3日
色彩とは如何なるものなるかを問はゞ。何人もよく之れを知れりとは難も容易に答ふることは難かるべし。他日學術進歩するに至らば。色彩も他の化合物の如くに數學を用ゐて精しく説明するを得るに至るべしと雖も。現今にては未だ不完全にして。黄色と云ふとも其中には數百の變化あり。之れに對し一定の名稱なく單に淡黄色とか濃黄色とか云ふに過ぎずして。畫家には何の役にも立たず。空は青色と云ひて怪まざれども。青色の繪具と比較せば寧ろ緑色とも云ふべき場合あるべし。
大家の作品に就て見るに。空は充分空氣の趣を現はして遠く深しと雖も。之を自然に比ぶるときは晝の空は實際の空よりも餘程弱かるべし。
赤色にも亦強きあり弱きあり。又た性質の種々異なれるものもあれば之れを一々明瞭に説明することは到底出來難く。只成るべく實際に近き名稱を附するより外なし。
人は善き色惡き色と云へとも。元と之れ比較上若くは場合に依るものにて。甲の色を乙の色に比ぶるとき其間に良否はあらんも。畫家より云へば只だ我目的に對して適當の色なるや否やにあるのみ。何れの色を採らんも皆隨意にして善惡の別あることなし。故に之れが撰擇を誤れりとも色彩を責む可きにあらず。音樂家が音響を責め文章家が文字を責むると一般なり。平易の文字にても大思想を現はすが如く。簡單なる色彩にても傑作を得らるべし。
色彩を感受する能力は之れ天才にして。此の如き畫家は大家となるを得れども。此能力なきものは畫家の間に伍することすら覺束なからん。先天的に色彩の才能ある人ならば之れを開育して益々發達せしむることを得べきも。之れなき人にては見込み尠なし。尤とも名刀も用ゐざれば鈍るが如く天才たりとも練習肝要なり。實地に就て研究し益々發達せしむべし。未熟なる畫家は何人にも見ゆる粗野なる色にて畫を作れども。研究の積める畫家は種々復雜せる微妙なる色までも能く認めて。全體の眞を誤らず之れを描くなり。草の緑色には何の青と何の黄とを用ゐたるやは知らず。將た快妙なる鼠色には如何なる色を混ぜたるかは見分け難しと雖ども、觀る者は畫家が此の如き色を自然裡に認めたるものなることを識り。又た其色は正しく且つ美しきものなることを悟るなり。此の如きは全く畫家が日頃の研究修練の功に外ならずして。只だ漠然と青空は青色を塗り緑草には緑色を用うる如き沒趣味とは雲泥の差あるを知るべし。
故に心得べきことは。畫かんとする畫材構圖明暗の趣を充分に研究すると共に色彩をも亦深く研究することにして。之れが極めて肝要なるのみならず蓋し最大難事たらずんはあらず。先天的色彩の才能ある人ならば注視熟考して益々色彩の妙を悟ることを得べきも。然らざる人ならば殊に刻苦奮勵して研究を怠る可からず。
自然裡に或種の色を求めんとすれば其色忽ち現はるゝものなり。紫色を見んとすれば紫色見ゆべく。青色を求めんには青色あるべし。此心理の作用よりして。畫家の中には其畫家特有の一種の色が畫面全體に現はれ。一見して其畫家の畫と云ふことが分れども。畫家自身は一向之れに氣付かざる者もあるなり。往々色彩を見分け難き一種の僻に陷ることあり。之れが救濟には我が最も用ゐ慣れたる色を省き。暫く使はぬにあり。當分は習慣より甚だ不便を感ずれども。追々馴るれば毫も不自由なきに至るべく。然る後は時々少量づゝ其色を用うるとも妨げなし。
畫の本來は。物の色と又其色の形とを現はすにあるものなるが。種々の色にて物の形や調子を現はすは困難なる仕事なれば。此困難を避けんがため一色畫を初めに研究する人もあれども之れは考へ物なり。白と黒とにても畫の調子は取られ得べく。木とか空とかの感も幾分現はすことを得べしと雖ども。其木が果して緑なるかは分らず。單に形が木なれば之れは緑ならんと察するに過ぎずして。形が木の如くならざるときは只だ黒きものとより見へざるべし。色彩無くば美術は實に淋しかるべし。人生より色彩を除き。野も山も花も草も皆一色とならんには之れ豈に惨憺たる光景ならずや。色彩を樂しむは人生の快事なれば。之が研究を困難なりと思はんよりも愉快なりとなすまで色を使ひ慣るべし。人の色彩の性能を啓導開發することは畫家の務めにして。世には多忙に紛れて一向に色彩の美を心に留めざる人も尠なからざれは。我之れを人に現はすことを得るよう先づ進んで研究せざる可からず。
好き風景は形状の美と色彩の美と相合して現はるゝものなり。一致融合せる色彩は常に美しく。又た其美しき色彩のため物の形は益々趣を加へ。其形彌々好ければ其色益々引立つべし。古大家の言に聖母の像を土にて畫くことも難からず之れが周圍に塗るべき色彩あらば足れりとあるも皆此理なり。