小笠原寫生旅行[四]

丸山晩霞マルヤマバンカ(1867-1942) 作者一覧へ

丸山晩霞
『みづゑ』第四十
明治41年8月3日

 大村より二見灣を隔てた西南の對岸、桑の木山の麓、扇浦の海岸より連樹谷に亘りたる村落を扇村といふて、父島第二の大部落である。大村より陸行すると二里餘の險路である、が凪ぎたる日は大村より扇浦通ひの渡船があつて、航路は約一里である。大村の宿に居ると、埠頭のあたりで時々法螺貝を吹きたてる、これは通ひ船の出帆する合圖である、最初はこの合圖があると早速出かけて乘り込んだ、が中々船を出さない。通ひ船といへば優美に聞こゆるが、責際こゝの通ひ船は希代の老船で、おそらくは開島以來のものであらう、修繕に修繕を加へて寄木細工の如く、元形は全く消滅して外部は黒ペンキを數十度も塗り改へたらしく、水に浮で居るのは寧ろ不思議で、凪た灣内ではある、がこれにて人間が運べるかと思はるゝ程である、そして船人はといふたらこれも希代の古物で、米の齡ひに手が屆く程で船とよく調和して居る。初めて乘つたときは、水練の素養無き余には安心が出來なかつた、その上この老船人の氣長なるに驚かずには居られない、乘り込んでから二十分、四十分、一時間待つが中々船を出さない、乘客か如何に急ぎかけても平氣なもので、忘れた時分には又貝を吹く、一人乘客が加はる、まだ出さない、又三十分、一時間、又貝を吹く、乘客が又一人加はる、午前七時三十分に乘り込んで、十一時になつてもまだ出さない。あまり退屈であるから埠頭に上りて制札を見ると、渡船の定賃と一人たりとも渡船する事、とは定規が明記してある、が制規を以て責むるは内地の事で、この島の凡ては制規外の島的約束で行はれて居るから、未だ島的に化せられない余等は癇癪が起る、が自分がこの島に來た目的は、島的閑散に浴さんためであるから、島的約束の閑散は喜んで受けねばならぬ、かう考へを廻らすと、制規を破つた島的約束が嬉しくなる、扇村に急用があるでもなく、到る處は皆研究の材料である、この襤褸船の中に一日居るのも面白い、と自分だけ悟つた、が余等と内地より同船した新來の手合もこの渡船にあつて、癇癪を起してブイブイいつて居る、あとからあとから乘りこむ連中は皆この島永住の人で、貝の音を聞てから事をすまし、それから晝寢をすまして來たのだ、貝の音の合圖を正直に解して、早く駈けつけたのは皆新來の人々である、新來の人々も永く居るうちには終に島化さるゝのである。漸く船は岸を離れた、このときは十一時半であつた。櫓を押す船人の掛聲は大したものである、が船は更に進まない、風が無から帆を用うる事は出來たい、船は同じ處にグラグラ動て居るのみだ、このぶんでは約一里の海上、扇浦に着くのは今日中には無圖かしいかもしれぬ、悟りますした余は遲くも早やくもよい、一日かゝつても二日かゝつて到着しても、余にとりては何れも可である。二見灣内の風光は絶美である、波平にして湖上の如く、水は透明して珊瑚礁の細かき枝幹茂り合ふて、白銀もて作り森林を見る如く、色彩麗はしき小魚は小鳥の如くその間を遊泳して居る、譬へば海底の銀山の如く、山には高低ありて、高きは峯、低きは溪谷、自分は輕氣球に乘じてこれ等の奇景を瞰下しつゝ走るかの如くである。海の深淺と空と四圃の山岳との關係より、海面は種々の美彩を放ち、又は波紋の奇形等に興を湧かし、美の水美の山を眺めつゝ靜かに船を浮べて居る、これならば十日かゝつて對岸に着しても不平は無いのである。同じ處に動て居る樣に思はれた、が段々大村を離れて扇浦が近くなつて、金目岩や野羊山が近くなるは不思議だ。海も深くなつて底が見えない。無風であつた、日も灣口より風が吹て來て、鏡の如き灣内も波に破れて船は動搖を始めて船暈を感じた、大村の船見山と扇村の野羊山との間が迫つて、そこが灣口で船見山に近いところに立つ岩がある、灣内に入る船の目標となつて歡迎岩と呼ばるゝ。其附近に暗礁多く、外海より送らるゝ怒濤はすさまじい勢を以てそこに碎け、其餘波が灣内に突進して來て、余等の乘れる襤褸船は水の入らんばかりに傾いた、かうなると風景どころではない。船暈どころでない。泳ぎの出來ない余は罵倒した老船人を命の綱と頼んだ。老ても船人である、斯道にかけては名人である、これ位の波は平氣のもので、風を待つて居つたといふ態度で靜かに帆を巻き揚げた。今迄猫のやうであつた船も急に虎の如くり、矢の如く走つて大小の波を乘り越へ、束の間に扇浦に着いた。
 

大橋三平筆

 扇浦は一帶の砂濱でしかも遠淺になつて居る、海水浴場として無二の好適地である。船を下り白砂を踏みて扇村の町に出た。此島は時々強風烈しきため、海岸に沿ふて建てられた人家は必ず風防林を廻らして居る、が扇村は地理の關係上強風を避けらるゝためか、内地の漁村の如く海岸を廻らして人家が建てゝある、風防林が無いから、海岸に面した家の裡より居ながら灣内の風光を展望することが出來る。扇村の町は單に海岸通りの一筋で、大村の町よりは狹く、凡てが不規律で大小の樹木等繁りて、家も人民も皆素朴で島的閑散の趣きが充分に現はれて居る。島生活の状態に材を求むるには扇村である。無事に苦しむ樣な氣長連中の群れてゐる町を二丁餘り行くと、桑の木山の連樹谷より流れ來たる小河がある、こゝに架した板橋を渡ると大きな森がある、森の中には小學校、分署、村役場、寺院等がある。今日扇村に來た目的は、先の日今日の午前八時に訪問すると約した友を尋ぬるためである、友は東京の牧師遠藤干浪といふ人、昨年來より病痾療養の爲めこゝに滯留し、傍ら布教に勤め多くの信者を有してゐる、吾等にも頗る親切にて萬事の便利を與へてくれたのである。この日も二子山より洲崎方面を案内するといふのであつた、氏の清居を訪問したのは午後三時、約束したのは午前八時、七時間も違約してゐる、余は流石に心苦しければこの罪を謝した、が氏は頗る平氣で余の遲れたのは寧ろ期して居つたらしかつた、一年有餘の島生活に化されたのであらふ。余がために新鮮の香蕉と檸檬湯を饗した。
 二子山
 共に携ふて千浪氏の清居を出でたのは三時過ぎであつた、扇村の山に傍ふたる裏通りをぬけて行くと、そこには小さき小舍が軒を列べて建てゝある、人々は島産物のパンダナスの葉にて種々の細工ものをして居る。縁蔭深き坂路の中段に共同使用の井戸がある、父嶋一等の清水が湧出し、違く大村よりも飲料としてこの水を運ぶのである。坂の極る處は、先の日北袋澤方面に辿りし現はれ峠の大路である、この邊の木立より連樹谷に亘れる緑の中に鶯が頻りに啼て居る。路は右折しくこゝより二子山である、赤土の路を登り行くと、路傍に印度竹及び椰子樹が並木の如く列植してある。二子山には鍋島某の開墾場がある、先づこゝに案内された、規模廣濶殖産事業の見る可きものが多い、が自分は佳く繁茂したる甘蔗や香蕉畑より、南洋の植物を蒐集して移植した氏の庭地には興を滿たした、奇しき植物には奇き花奇しき實を着けて一種の香氣があふれて居る、家は皆島的堀建てで大きく土間廣く、そこには種々の農具等散在し、家禽家畜は所々に群れ、飼養の婦は單帶素足にて飼料を運んで居るさまは實に好畫題である。後庭に出づると檸檬、ザボン、佛手柑、夏蜜柑等豐熟して、黄金の實は地に着かんばかりに垂下して居る。蜜蜂は午後の日光を浴びて花より花に群れ、芝生の丘にある數十の箱に彼等は飼育されて居る。丘の前には澤があつて、大なる實を着けたる香蕉茂り、これが澤なりに長く續て、それに沿ふたる道を下り行くと、パンダナスの葉を製造して居る小舍の前に出た、一群の男女が頻りに働て居る。こゝより澤を横切のメリケン松の小山を登ると、島聽の珈琲試作場に出た、この附近一帶は皆珈琲を栽培して、今は熟期で、實は赤珊瑚の珠を着けたる如く美はし、園守の語る處によると、本年は風害のため好果を得ざりしとの事、殊に成熟期には、夜になると百數十の大蝙蝠が群集して實を食求り、これ等の害を蒙る事多大との事である、實の採取は多く婦人を使ふので、園内各所になまめける唄の聲が聞こゆる。こゝを辭して某の砂糖製造所に立寄り、甘蔗數本を求めこれを噛みながら現はれ峠に出で、扇村に歸たのは午後六時頃てあつた。この夜千浪氏方に泊し、清談夜を更し、扇浦に寄する波の音を聞きつゝ心地よき寢に就いた。
 

カッサン氏鉛筆臨本の内

 洲崎
 翌日晴起床のときは旭日軒端に輝き、後庭の竹林に鶯が鳴て居つた。この島には得難き清水にて顔を洗ひ、海岸に出で、新らしき空氣を呼吸し、茶も甘く朝餐も甘く喫した。今日は洲崎に案内するとの事、午前七時に發す、昨日經し路をとりて二子山より右折し、雜草の間なる小道を迂曲して下る、この附近一帶の雜草に混じて數種の草花咲けるを見る、草花はこの島固有のものにあらずして凡て舶來種である、これは蜜蜂飼育上この附近一帶に鍋島氏が播種せしものと。小流に沿ふて下ると平坦の地に出づる、甘蔗畑の間を行くとそこに樹木又は大濱萬年草等密叢して、人家二三歸化人の住みたる如き家もある、林を出づればそこは一帶の沙濱、正面は野羊山である、同山は内地の江の嶋の如く、そこに行くには幅四五間の沙濱長く續き、その両側は一方二見灣他方外海より波濤が打ち寄せて居る。二見灣に面せる處に正方形の大なる岩がある、怒濤これを打ちて白波數丈の高きに飛ぶ奇觀に接す、それより大小の石散點し、退潮の時であつたゝめ石を傳ふて波打ち側まで辿つた、所々潮水のたまりに奇しき動物が居つた、小團の體より四本の五六寸又は入九寸程の細き脚を出だし、その脚は一面に二分程の刺を生じ、靜かに水底を這ふて居る、海栗の屬にやあらん。野羊山には洞穴ありて、内部廣く小舟にて探ぐる事が出來るとの事なれど、冬期間は馴れざるものには危險との事故、これを探ぐる事を見合はせた。一方の外海より打寄する方は一小灣を爲して居るため、波も靜かで砂濱となつて居る。其附近には濱晝顔の花等が咲て居つた。美しき貝奇しき岩石等を採集し、濱遊びの歡を盡して扇浦に歸れば、濱には丁度大村行きの便船があつた、再遊を約して千浪氏に別れ、順風に帆を張り、血氣に充ちた船人三人、舶も安全なれば矢の如く走り、一里の海上三十分にて大村の埠頭に着き、宿に歸つたのは午前十一時であつた。この日午後より船見山にて二見灣を寫生した。

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