ピーター、デ、ウイント[七]

青人
『みづゑ』第四十 P.14-20
明治41年8月3日

 概していへば、デ、ウイントの生涯は間斷なく仕事を續けゝるなりけり。氏は空想に時を費さざりき。金錢を獲んが爲めには終日それよりそれと仕事を續け居たりき。一八三九年十二月三十日にヒルトンの死去せしが爲に打撃を蒙りしかども、氏が嬉んで從事しける非常なる勉強の仕事も左程長くは妨げられざりき。それよりして直にかゝる過勞が氏の健康に關係し來りぬ。氏は短慮となり來りぬ。性質刻薄なりしかば、初對面の人には好く嫌惡せられつゝありき。一八四三年にニユーフオレストにて寫生しつゝありける折、氣管枝炎にて殆ど死に垂んとして、倫敦へと送られぬ。氣管枝炎再發三發して、身體の衰弱甚しくなりもて行きぬ。かゝる事には頓着なく、一八四八年より四九年の冬に至るまで間斷なく働きしかども、其年の春に至りて、漸く展覽會への出品畫を送る程に力附けるなりき。一八四九年六月三十日遂に六十六にて此の世を去りぬ。死骸はサヴオーイの會堂地に埋葬しぬ。蓋しこゝにはヒルトン及同夫人及母君の埋葬地なり。
 サー、ウオーター、アームストロングの説に依れば、デ、ウイントは中身丈にて疲躯に色黒く、頭髪は若き頃は黒かりしとそ、デ、ウイントの孫娘エツチ、エツチ、タツトロツグ孃の蒐集しけるデ、ウイントの縮圖の肖像を見るに、氏の執拗にして不動なる面影の現はれ居るなり。此の不動の樣が氏の性質を知るの基なるべし。氏が金錢に愛着しけるは、節儉と金貯とに負ふ處多大なりしかども、徃々にして此二徳を裏切することありき。例之ば氏が甞て、生徒の紙の端に雌牛を數匹描きしとて、一課一ギニーの上に二十五シルリングを追微しけるとぞ。氏は氏一個人の展覽會を自己の畫室中に開きて、人々に縱覽を許しけるが、なかなかの商買人にて、賣らんと欲する畫には必ず白紙の附箋を爲し置きぬ。富豪の友人の一人が何時も、何れも佳作なりとて、これに賣約濟の記號を附すること慣となりき。デ、ウイントはかゝる工風に飽きて、別策を案出しぬ。さて個人展覽會の日來りぬ。例の友人來りて、狂喜の樣にて附箋したる繪畫の前に進みて曰く、『さてデ、ウイント君附箋の繪畫は擧げてわが所有たらんことを望みけるを、悲むべしかく賣約濟とは』と。畫家は友人の肩を扁手もて叩きながら、曰く『貴處のお氣に入らんを慮りて、貴處の爲に附箋し置けるなり』と。また繪畫の値段を幾ギニーとするの癖ありき。或時從者の異議を挿みて曰く、『デ、ウイント君よ、今日ギニーてふものなし、宜しくパウンドとせんか』『されどわが値段はギニーなり』『成程貴處もシルリングのはしたを爭さふにはあらざるべし、』『否とよ、そは可なり。其はしたなるシルリングがわが細君の有たり、塵葉の如き瑣事なれども爭ふなり。もしそれにて不可ならんには、宜しく止むべきのみ』と。
 デ、ウイントの死後一八五〇年の五月にクリステーの競賣ありき。水彩畫油繪等賣却數四百九十三點、其賣上高二、三六四ポンド七ミルリング六ペンスにて一點三十ギニーに上りしもの頂點なりき。されどこゝに斷り置かんに、デ、ウイント夫人は經驗ある賢婦なりしかば、最良の繪畫は競賣に出すことを敢てせざりしなり。夫人はこれを保存し置きて、愛娘に讓渡しぬ。タツトロツク夫人は義侠の人とて、世人は實にこの夫人に負ふ處其太多しとす。その義擧とは、「ゼコーン、フイールド」と「ウデーランドスケープ」をサウスケンシングトンミユーゼアムに寄贈しけるなり。これより先き夫人は此等の繪畫をナシヨナルギヤラリーへの寄贈の運動を爲せしかども、徒勞に屬したりき。時の主管者たりし故サー、ウィリアム、ボキサルが此貴重なる繪畫を親しく見たりしにも關はらず、價値あるものと認めざりしかば、タツトロツク夫人の寄賂をも拒絶したりけるなり。かゝる誤認の徳にて氏も永く世人に記憶せらるべきか。
 デ、ウイントの技術に第一に認めらるゝは、ギルチンの技術上の兒童なりしことなりき。デ、ウイントは獨立獨歩の人なれば、ギルチンを模倣はせざりき。ギルチンの畫風の内容の本質と生命とを解得して、氏自身の繪畫の完成に要用なるものを借り來れるなりき。如斯にして借り來れる金銀をば再び鑄造し了はれば、既に業にデ、ウイント自身のものと成了るなりき。素より師の面影の存する處は一見して分明なりき。こはデ、ウイントの初期の作品が、これに適應すべく、殊に「クツクハム、オン、テームス」の如き、平穩なる水、莊大なる樹木等繪として靜穩なる出來なり。日光に輝ける教會堂の位置、後景の線條、左側の好景の技術と右側のテームスを横斷したる丈高き樹木の間の均合等、總て印象の統一、單一にして、落付ある處は、トーマス、ギルチンの畫風の面影歴然として見ることを得るなり。されど手法及色彩の豐富なる濕潤等皆デ、ウイントの發明にかゝるものにて、舟の形の如きは晩年の作中にも多く見るべく、此場合先見的のものたり。
 此の水彩畫の作製の時代を知らんとすれどもデ、ウイントの完成年代の確實なるものは殆ど皆無なり。作品に署名日附等を附せざるは、デ、ウイントの慣例なりき。又仝畫題を屡再轉して、展覽會キヤタログには、一方には不確實なる報告をしつゝあるなり。極端なるものをいはゞ「クツクムム、オン、テームス」が氏が初期の水彩畫にて、晩年の作中に澤山なる適例の對照を見るべし。ウエストミニスター(殆ど一八〇八年作)と「テームス、フロム、グリーンウイチヒル」とは強き對照にて、其他の早き頃の作品にもあるなり。此テームスの景の如きはデ、ウイントが單に郊外のスケツチにて、ギルチンの完成を助けたる、この廣大なる力ある、單純にして高尚なる描法を持續しつゝ、デ、ウイント自身の完成を來しけるあり。此の年號は一八一四年より二九年なること推定せらるゝ也。此時のデ、ウイントがクツクのテームスに於ける著述の仕事を爲しつゝありし時なりき。
 ギルチン門葉中のジヨン、ヴアーレーは學生に口癖に教へけるは、好含蓄ある色彩を淡薄に描けるものは、宛ら閑寂の趣あり。其故は各耳語するものも閑寂の中に明に聞取り得らるゝものなり。此の故に單純にして巧妙なる含蓄に於ける明晦の印象は直に見ることを得、又善惡をも知るべきなり。コツーマンは此の眞理に多大の同情を有しき、この一樣なる色彩に附きては日本畫の描法を追懷せらるゝなり。されど氏は日本畫を知り居たりしにはあらざりき。(今日迄の研究の範圍によれば)此の同じ眞理が常にデ、ウイントを指導しつゝありき。氏は自個の描法にてこれを行ふて、豐富なる榮えある色彩を施すなりけり。ジエームス、オーラツク氏曰く、デ、ウイントは『實に風景畫流中の大色彩家なり。蓋し何れの派中に於ても大風景色彩家なるなり』。人或はこれを信ずるものあらん、されど、色彩に附ての趣味は批評壇の論議に依りて證據立てらるべきものならず。其故は、二人が仝じ色彩を仝樣に見たる例なきが爲なり。此事實は世人の好く認むる處にて、デ、ウイントに對する獨斷的の批評と許さゞれども、豐富なる色彩の充分なる調和ある仕組はあらゆる畫家及美術品評家の喜ぶ處なり。こは批評家の謹身すべき範圍を越えずしていふを得べき事也。これ等の繪畫は英國派の風景畫中の最健全なる活氣あるものなり。これ等はミユーラーコツクスの色彩及畫風のそれと異りて、人の模倣し得ざる比類なき實質あるなり。堪能の聞えあるサムエル、オースチンは師の跡を踏まざりしのみならず、氏の繪畫中の或物は、デ、ウイント自身の手になりし價値ありと思いるゝ程なり。もしこれを事實とすれば、かゝる特種の繪畫は皆埋沒し了れるにて、今日知られあるオースチンの水彩畫はデ、ウイントのものとして價あるもの一としてなきなり。そは色彩を異にし又實質に於ても調子に於ても異れるのみならず、その手法はオースチンがリヴアープールに於いての畫風の明なる痕跡あるなリ。確に地方的なる語調ありて、甚だ快活なれども、ヂ、ウイントの力ある本人自身の言語の如くにあらざるなり。されどもしデ、ウイントの色彩と、技術が如何なる熟練の技術家たりとも、模倣すること能はずとせば、畫解としての墨畫を用うることをも不可能とせざるべからざるに至るなり。實にかゝる書解はよし善良にてもデ、ヴイントの最良なる實質の傾向や力や譎姿の面影を僅に覗ふに足るのみなるなり。

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