寄書 でたらめ

晩雨
『みづゑ』第四十 P.21-22
明治41年8月3日

 今日課業を終へて舍に歸れば自習室の机の上に一册の書物、それは曾て注文しておいた太平洋畫會畫集、早速拜見すると出て來たのが大下先生の肖像、次は鹿子木先生例の二枚の出齒は判然明瞭であつた。次のは滿谷先生これは頗る奇抜に出來て居る、頭のハゲタ恰好は何ともいへぬ。丸山先生の肖像はやツぱりどうしても小説のモデルにでもなりさうである。あんな顔をなされて居ても、繪具を塗つた布で顔の汗をふかれるのか知らん。昔、吉田先生と査公を罵倒した面影は見うけぬ樣だ。十三頁には石井先生の例の屏風畫の樣なもの。繪ばかり見て居て氣が付かなかつたが、其上には會員諸先生の住所姓名が背比べをして居る。一番長いのが中學世界で御なじみの三上先生の住所。十九字ある
 これから集中の畫は○○する(○○の中に入れる樣な適當な言語を得ない)
 一番すきなのが柏亭先生の房州南端。其次が明石先生の四月。一番よいと思ふのが鹿子木先生の老人、其次が中川先生の嚴寒の後、房州南端が何故すきか?自分は海の景色が一番すきだ。而もあの位置が一寸見た時から自分の膽玉を奪つた。寫眞版だから、どんな色をして居か分らぬ取材や位置は何とも自分の口ではいへない位すきだ。四月は何故すきか?こんな景色はいくらでもある樣に思はれる。平凡な景色である。併し扨て三脚さげて探す段になると中々見つからない。あのススキの上面には強い感が現はれて居るのだらうと思ふ。こんな景色を畫きたい描きたいと思ふ、それですきだ。
 理由が薄弱だといはれても仕方ない。昨日圖書館で梅澤先生の繪畫鑑賞法を借りやうと思ふたら只今出て居りますとの事とうとう讀めなかつたのだから。
 老人は何故よいか?よいからよいのだ。嚴寒の後もよいからよいのだといふより知らぬ。
 大下先生の猪苗代湖は印刷が惡かつた爲雨の景色の樣だ、(ひよっとしたら雨景かも知らぬ。)何か石版で一度見た樣な畫である。丸山先生の林投樹。色が單調だとふ評はあつたが寫眞版では分らぬ、確かに先生式の繪である口繪の御顔とは連想出來ぬ繪である。中央の木の葉、幹等の間に白く殘つて居るのが目にさわる。先生の繪は大低右の方にかゝる前景があつて一望千里といふ樣な大きな畫である。
 三上先生の河沿ひ。昨日自分はこの四手網の舟を油繪でなすつて見た。それが爲非常に刺戟を強くした。地平線を高くとつた他は平凡を免れぬ。
 永地先生の椿。右肩非常に廣い樣に思ふ。これは思ふだけで、責任のなきものとす。高村先生の水鏡。畫題の付け方を何とか尚一層奇抜なものにしてほしい。
 それから淺井先生である。自分は二年前先生に會つた。聖護院通の御宅を御訪ひ申した事があつた。早速會つて下さった。而も自分は二日つづけて御話を承りに參つた。それから岡崎の關西美術院で先生や鹿子木先生の繪を拜見した。初めて御會ひ申したのが最後に御會ひ申したのであつた。「卒業してからゆつくりやつて來給へ」といつて下つた御言葉はもう御聞き申す事が出來ないのである。集中藏められた先生の遺作を見て自分はそゞる回舊の念に打たれたのである。關西を風靡せられた洒々なる筆はすぐ轉じて谷口蕪村を想ふのである。
 而して先生の所謂琵琶のバチ然たる鼻が目の前に髣髴とするのである。
 先生の家の客間にかけられてあつた影の青い額から鼻へかけ明るく光つて居る先生の肖像畫(和田英作先生が巴里在留中の筆とかや)がチラチラするのである。
 先生の遺作河畔。向岸の家及び左方の森等は先生の肉筆に接する樣である。
 滿谷先生の野邊。これも非常にすきである。大阪で先生の肉筆を見たが其畫が顔の前へ出て來る樣である。
 森田先生の山頂の夏。之も見た時如何なる現象にや去年拜見した大下先生の赤城山?の畫が頭に淨んだそれはこれと反對に山が暗くて水面が明るく反射して居たと思ふ。世間で八ケ間しい石川先生の金魚の障子の反射も拜見した。
 これ偏へに此の一小册子の御蔭である。
 其代り自分などに、がらにもない事をいはするのもこの一小册子の罪である。終。

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