通信
『みづゑ』第四十
明治41年8月3日
去る三日着無事にて候、總てが單調で物にならず少しく失望致候、寫生中韓人と蠅の集り來るには防禦の道なく殆ど閉口、又、砂が飛んで來て畫面に積り筆が動かなくなる、景福宮内の寫生許可を得たる故明日より始むるつもり、内地へ入れば面白き所もあるよしなれど危險なれば參らずあまり長居はせざるつもり云々
六月十一日京城にて
◎次に六月末水原より
過日來雨天にて糞が流れ去り少しは耐へよく相成候昨日より當地に參り居候、京城よりは畫題多し、晴天の日十時より三時迄の暑さ繪具箱が熱して火傷するやうで繪具は出したてゞ忽ちカチカチになる、樹蔭に入れば凉風あるのに汗は瀧の如し。昨年の天王寺の比にあらず、夜に入れば浴衣では寒い、これで凌げる云々
因に同氏は既に歸朝の途につかれたり
岐阜洋畫展覽會
六月十二日より三日間岐阜倶樂部樓上に於て當市洋畫同好者二十餘名を叫合し作品の展覽會を開催す。出品總數百二十餘禎專門家の數人を除き他の多數はアマチユアにして何れも渾身の精力を集注せし作品のみなり。
就中主催者は大下、丸山両氏の作品両三點の貸與を受け出品せしは同好者に甚く滿足を與うるを得たり。他に水彩畫大禎としては矢野氏の秋、催主の黄昏、後藤氏の木の下蔭等なり。油繪にては櫛田利雄氏の大幅十數點及素人に關はる出品十餘枚にして他は何れも水彩畫のみなりき
尚主催者は此期を利用し會合を組織し時々寫生會、批評會展覽會等を開催し斯道に對する眞趣味を開拓せんとする意見なり(森南涯氏報)