イースト氏寫生談

石川欽一郎イシカワキンイチロウ(1871-1945) 作者一覧へ

石川欽一郎
『みづゑ』第四十一
明治41年9月3日

 毎朝起れば必ず顔を洗ふ如く。毎朝必ず一枚づゝ空の寫生を爲さんには六ヶ月も経たば空の變化に就て幾分悟る處あるに至るべし。尤も他に仕事も有ることなれば長き時間を費すの要なし。凡て三十分間づゝとして。朝飯の前とか後とか定めて必ず之れに充てゝ置かば極めて便利なり。若し此時間内に畫きゝらぬとせば一番面白き部分のみを畫くも可なり。畫きゝらぬ處は紙上に心覺を註記して他日の參考に資するも差支なし。之れは練習に益あるのみならず大に學問になるものにて。空氣の有樣と空との關係如何を悟るべし。故に其畫に日と時間。風の強弱等を附記することを忘る可からず。若し青空を畫く時は其色の淺深寒暖の度を研究すべし。或は淡雲が空に散れる有樣も好き研究の材料なり。或は雲の上に又他の雲が重なり。一方の影が他方に映つる等も中々面白き材料なるべし。
 空は扁平に見ゆるを避くべし。青色を只だ平らに塗れる空程見苦しきはなし。其色は如何に美しくとも只色のみ見へて空の深い趣が現はれざれば不可なり。古人の作に就て見るに。プーサン。クロード等の畫には空の深き趣は能く現はれず。往々色の配列に過ぎざるの觀あり。然るにターナー。コツクス。コンステーブル等にありては。各自の描法は異なるとも皆一樣に深さと遠さとを現はせるを見るべし。
 空の色の調子は如何と云ふに。自然の色と能く調和し且つ木。草等の位置並に色が。空の有樣。色と相調和せざる可からず。又た空に釣合はさん爲に樹木の位置を變更することはできざれば。樹木に適するように空を作るをよしとす。
 雲は如何に畫かば畫に釣合ふかと云ふに。之れは種々複雜するを以て一定の法を設くること能はず。空の感じは凡て之れを反射するものに現はれざる可からず。水面のみに限らず。草。木。道。屋根にも空の感じは現はるべし。之れ風景と空と相調和するの謂なり。必竟風景の調子なるものは。空の色が反射し一部分の色と相調和したるものなり。光線とか將た遠景等が色を生ずるにあらずして。方々に反射する數万の光りの集合したるものが即ち之れなり。空は元と廣大無邊にして且つ清麗なり。故に之れを心とせば美しき空を現はすを得べし。地面は空に。空は地面に相照應して茲に初めて畫の眞意を得たらんか。
 遠景
 遠景の色は見る場合により種々に變化するものにして、例へば伊太利にては遠景は主に青色に見へ、英國にては鼠色に見ゆ、英國にて遠景と空と融合して兩者の限界を能く見分け難きこと往々あり、蘇格蘭にて秋の夕暮日に向ひて眺むれば、遠出は一體に濃き紫色を呈し、日漸く傾きて光り衰ふるに及び山上の草木岩石を見るに至るべし。
 遠景は實際に於て何程の距離にあるやは之を知るも、其微妙なる色を畫に現はしたる上に於て距離を觀者に想像せしむるは大難事なり、實際に彼の山は此處より何町の距離にあるを知るも色の變化には深く注意せざるものなり、遠ければ物の形の小なるを見るも色の變化するには氣付かざるべし、高塔より瞰下して人が小さく見ゆるに驚くこと往々あるは、距離の標準に形の大小を以てするが故なり、迂回せる渓の道並木若く綻遠方の家屋等は遠ざかるに從ひ形を縮少すべし、併かも朝より夕まで間斷なく變化する色彩に就ては如何に之れを識別すべきや、一分時も一つ場所の色は止まらず、或は日が照り或は影りて光景常に新なり、日光の輝く有樣は遠景を幻の如くならしめ、暫時前まで朝日の影静かなりしに日中になれば萬物は皆陽炎の中に震動するやの感あり、豊かに日光を浴せる深く遠き趣は之を現はさんとして容易なるものにあらす、殊に陽炎の有樣には充分の注意なかる可からず、古への大家も未だ一人として此光景を能く現はせし者無く、又た風景畫が獨立の專門となりし以來、欧洲にて此微妙の有樣を克く現はせる畫を見たることなし、併かも夏日には此の如き現象常に起るものにして、少しく注意せば敢て珍らしき光景ならざるを知ると雖も、之を筆に現はすの人尠なし、尤も初學者に向ひかゝる六かしき畫題殊に遠景の陽炎など難問題に着手すべしと云ふには非らず、之れは上達したる後の事として、先づ樹木の影の部分、或は山や道が鼠色の影になれる場合等に就て研究すべし、繪具の色以外に能く遠景の趣を思はしめろ好畫を得ば極めて愉快なるべし、
 假りに茲に樹木と草とが前景にありて、小徑は其間を廻り廻りて中景の小高き畠地に至り、此畠地の麓には細流あり、水面は樹木や畠の間より見へ隠れ、遠景には草原や田畝が遙かに延びて天に連なる光景ありとせんか、目前に在る草も遠景の草も同じ草なれば、自然に我が知れる處に據りて色を判定する爲め遠景の草も緑色なるが如く思はるれども、試みに小高き露に到り、目を地に近けて前景の草と遠景の草とを比較するに、遠景の草は少しも緑色には非らず、鼠色を含み且つ近景の草よりも餘程其間に距離を現はせる色なるを認むべし、遠景と前景との間には種々變化せる色現はれ、最近所の草が最緑色を呈すべし、遠景の草にはコバルト、イエローオーカー、ロースマダー少量、ローアンバー少量の類を用ゆべく、又た霧がかゝれる草は極めて六かしきものなるがイエローオーカー、コバルト、ロースマダー少量等を以て畫くなり、要するに永く研究練磨して色の加減を悟るべきなり、空が遠景に接する處は遠景と同時に畫くを可とす。

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