展覽會の繪畫

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

大下藤次郎
『みづゑ』第四十二
明治41年10月3日

△通常の人の展覽會に往つて繪を見るのは、藝術の光に浴し忘我の境に入り多少の快感を受けてくればよい、然しながら繪畫を學ぶ人は、たゞ觀て樂しむばかりでなく、これによつて修業上何等かの利益を得て來なければならぬ。
△自己の修養のために繪畫を見る場合には、その畫題や畫風に好惡があつてはいけぬ、自己の好む繪にも缺點もあらうし、好まざる繪にも長所があらう、其缺點長所を冷靜に見出して研究の資とすべきものである。
△更に直感上好畫なりとて醉ふてはいけぬ、醉へるもの迷へるものに眞の味は分らぬ筈である。自己が直感上良いと思つた繪があつたら、何故にょいかを研究すべきである、構圖か、色彩か、或は二者を兼ねてゐるか、たゞ良い處ばかりでなく其缺點をも探し出して飽迄究めねばならぬ。
△同時に、惡作または好ましからぬ繪からも其美點を求め出すは必要のことである。
△面積の大小は決してその畫の價値に高下を與へない、畫面の大なるものが必ずしも大作ではない、其面積によつて輕重を別つべきものではない。
△筆意の精粗も同じく其繪畫の價値に影響すべきものではない。畫き上げるにタトへ多大の勞力を拂ふて、即ち惨たる苦心の後に成つたものでも、其結果がよくなければ何等の價値もない事となる。密畫に傑作があろと同時に粗畫にも傑作のある事を忘れてはならぬ。要するに繪畫の巧拙は其出來榮によつて判ずべきものであつて、製作の徑路は敢て問ふ處ではない。
△油繪とか水彩とか、日本畫とか、區別して見るに及ばぬ、タトへ自分は水彩畫家であらうとも、他の形式の繪より受くる利益は決して輕んずべきものではない、其手法に於てこそ各自に相違はあれど。目的は粗ほ同一であるのであるから狹く偏するのはよくない。
△展覽會へ出る繪畫に二種類ある、一は觀て面白い繪で、一は見て有益な繪である。即ち、前者は既に繪畫として畫かれしもの、後者は研究畫である。博覧會や公設展覽會等には前者の多數が現はれ、太平洋畫會や白馬會の如き、私の展覽會には後者が多い。
△多數繪畫の陳列せられたる展覽會場の如きには、出品者の中に多少の手加減を用ひる者のあるは勢免れ難きところであつて、他の注目を惹かんがため、奇なる題目を選び、又は色彩を強烈にするとか、華美にするとか、額縁の装飾を熾んにするとか、種々なる手段を弄するに至るもので、これを展覧會畫といふ。かゝる作に對しては、餘程眉に唾してかゝらねばいけぬ、即ち醉はされも迷はされもせぬやうに用心すべきである。
△然らば、如何なる方法によつて繪畫を觀たら自己の修養の助とすることが出來るかといふに、前述べたやうに、好き嫌の念を去り、畫幅の大小、筆意の精粗によつて體度を變へず、冷静に觀察して、其繪の長所と短所を求め、自分に吸牧すべきものと排斥すべきものとを分つにある。
△繪には、頭腦で畫いた繪と、筆先で出來た繪とある。即ち、畫者の人格の力で成つたものと、技巧一方で仕上たものとある、一寸見てよいと惚れる畫は多く後者に在て、噛んで味の出るのは前者である。
△其筆致が不器用でも、頭腦で畫いたものは、幾度見てもまた幾年たつても飽きが來ぬ、即ち見醒めがしない、これに反して、技巧一點張りの繪は、精しく見、又は再度三度と見てゆくと、多くは最初に受けた快よき印象を失ふものである。
△繪畫を見るに、畫面に現はれた線や色彩や、たゞそればかりでは何等の益もない、宜しく其畫の精神、即ち作家の意の存する處、其周到なる用意一等迄も見届けて學ぶ處がなければならぬ。
△展覽會などで評判のよい繪があると、忽ち其畫風を眞似する人が出來る、眞似は決して惡いことではないが、皮想の眞似、即ち其筆意を似せるとか、色彩を似せるとかするは何の益もない、人は各々特性といふものがあるから、徒らに眞似をしても成功するものではなく、よし成功したとて、眞似された人以上に出る事は出來ぬものである。
△眞似をしたい人は、モツト根本に踏込んで作家の精神を眞似るのである、即ち其作家が、新しい畫風によつて評判を得たなら、自分も別に新しき風の作を試みて、それ以上に出る研究をしたらよい、各自の特色は甚しく不都合のない限りは保存したいものである。
△世には、自分の好める傾向の繪を無暗に褒めて、自分と別主義をとる人の作を惡しざまに言ふ人もある。まだ畫道に片足を掛けたばかりで、大ソー高慢になつて、先輩の作の缺點ばかりを探し出し、罵倒して得々たる人もある。これ等の輩は、他の美を見る眼を持たぬ不具者であつて、早くその體度を改めぬに於ては將來の進歩は覺束ないであらう。
△新聞雜誌の批評を唯一の標準として繪を見る人もある、その批評たる、よく其正鵠を穿つてゐるのもあると同時に、甚だ見當違ひのものも少なくはない、堂々と自己の本名を記して批評されたものは、多少の誤見はあつても、猶其體度に對して尊敬を拂ひ、傾聽すべき價はあるが、匿名で、甚しく褒めたり惡罵してあるのは、其間幾分の不公平なる觀察がなきにしもあらずであるから、あまりそれを頼らぬ方がよいと思ふ。
△繪畫の良否を直感で極めるのは危險であるが、最初は直感で、よいと思つたもの、惡いと思つたものを大體區別して、そのよいと思つた方から仔細に觀てゆくとよい。勿論二度や三度見たゞけではよく分るものではない。
△何故に良いか、何故に惡いか、解剖的に觀察してゆくことも無益ではない。まづ繪の組立を見る、蔭日向の調子を見る、色彩の調和を見る、作家の現はさんとする、エフエクトが充分であるか否かを見る、目に立つやうな不自然な箇所がなく、春なり秋なりの感じが切實に出てゐたら、それは良い繪といふに妨ない。
△何故に良いか、何故に惡いかといふことが、たゞ思ふ計りで自分で其譯が發見されない場合には、これを自己の信ずる先輩に糺して意見をきいたらよい、曖昧にして看過したのでは何等の資益がない。
△要するに、繪畫展覧會に入つたら、畫道修業者は普通觀覽人よりも一層も二層も注意を拂つて、深くその繪を鑑賞し、タトへ拙作の繪畫からでも、多少にても自己の研究を助くるやうな美點を見出すことを心掛けられたいと思ふて、こゝに一言した次第である。(完)
 以上は、曾て日本水彩畫會研究所例會に講演せしものにて煩をさけ要を摘みしを以て、文字連絡を欠けど、丁度上野に各種の展覧會の開かるゝ時であるから、諸君の御參考にもと茲に掲ぐることゝした。

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