イースト氏寫生談
石川欽一郎イシカワキンイチロウ(1871-1945) 作者一覧へ
石川欽一郎
『みづゑ』第四十二
明治41年10月3日
樹木が風景の中にあるは。尚ほ花が原野に咲くが如く何れも飾りなり。人として誰か樹木を愛せざるものあらんや。畫家が樹木を畫くにあたりては愼みて之れに接し深く其特性を研究せざる可からず。冬枯の姿若葉の趣將た深緑の有樣は何れも自然の妙致なれば。風景家は何よりも先づ之れを研究して其秀姿を賞し威容を敬すべきなり。風景畫の大家は皆樹木を賞玩し各獨特の方面より之れを研究して其作物中に美を發揮せり。
樹木を畫くに之れを空との調子を正しく現さんことは容易の業にあらず。樹木の形。大さ。重さ等に就いて考案成らば。初めに他の部分と同時に一と通り畫き。其次に枝の一團々々を他の景色を畫くと同時に又た畫く。斯く終始景色の他の部分と關係を絶たざるようにして漸次完成するなり。要するに實景と能く連絡を保つと共に。畫の他の部分とも連絡を保つ可きこと肝要なり。
樹木は圓味あるものなれば平板に見へては不可なり。又た生物なれば其活氣が現はれざる可からず。就中葉が空と界する處に風に揺く有樣は最も活氣の現はるゝ處にして。樹木の形状。葉の動揺が殊に著しく感ぜらるゝも亦此處にあり。寫眞にては葉は空に對して只だ硬く見ゆるのみにして少しも生きたる感を與へず。然るに自然にありては葉は風に揺られて響を發し生ある趣を示す。之れを描出すればこそ寫眞は畫に遠く及ばざる所以なれ。葉の端は木の種類により又た光線の工合によりて現はるゝ處同じからず。光りが葉の表に照る時と葉の裏からさす時とは其趣異なり。又は葉の重き木と葉の輕き木とは風に揺く速度も同じからざれば。目に見ゆる葉の端の感じも異なるべし。只だ葉の端のみを見る時は何れも空に對して硬く現はるゝと雖ども。木をも共に見るときは其趣の異なるを知るべし。例へば近く窓前の木を見れば葉の形。色までも能く分かれども。稍や隔りたる屋後の木は只だ葉の一團とよりは見へず。併かも此の一團の葉★。實は眼前にある木と同じく數多の葉の集合せるものなれば。之れを畫くには葉を一枚々々畫くも差支なきやと云ふに然らず。若し遠方の木を其如く細かに畫くとせば近き木は如何に畫くべきか。眞物よりも尚ほ眞に畫くことは出來ざるべし。要するに細かき部分が集まりて成る一團は。細部分同差樣の美を有するものなりと云ふ理を能く悟らざる可からず。
葉を能く見るときは。風に揺く間に或は葉の面に空の光を受け。或は葉の薄き端のみが見え。或は再び空の色を現はす等其動く角度により形と色とを種々に變化す。此の如くに全體の葉が皆動揺し居ることを考ふれば。樹木の端は凡て此の如き動揺の集合より成るのみならず。順次轉換して一葉は陰となり。一葉は日向となり。一葉は薄き端を現はす等間斷なく動揺するものなるを知るべく。之れを描出せんとするには。樹木の端を或は明るく或は暗く或は葉の薄端と云ふ風に畫かば。動揺する感じを現はすことを得べきなり。樹木がかく揺くは生命ある所以にして。人にも生命あれば之れを見て興味を感ずるなり。死物は人之れを見るを好まず直ちに放棄すべし。
木の葉は空に對しては恰かも角ある物體の如く硬く見ゆると云ひし畫家もあり。そう見ゆるには違ひなからんも。我はそう感ぜざるなり。
若し風景畫は單に自然を摸倣するものなりと考へ。之れを我目的と爲す人あらば其人には此上語るの要なし。戸外に在りて目に見ゆる通りを畫かば。自分には面白かるべしと雖ども之れ人を欺くものなり。摸做は藝術にあらず。單に摸倣のみにては自己の創意無く我が見識なければ從て希望もなかるべし。畫家が模倣の奴隷となるは堪へがたきことなり。我が自然に感じて人には見えざりし一物を捕へ。之れを他に示すこと能はずとすれば何の爲に畫をかくや此の如き畫家は用なし。コロー。コンステーブル。ターナー其他風景畫の眞の大家の作を能く玩味し。如何なる風に自己の感興を筆に現はしたるか。單に一瞬時に自然に見ゆる現象を只だ摸倣すると云ふならば。到底畫くこと能はざるものなることを能く悟るべし。瞬時の現象を描出する眞の價値は。其現象に先だち或は後れて起らんとする他の現象をも共に想見せしむる感じの如何にあるものにして。單に其時刻丈に見ゆるものゝ摸倣と云はゞ愚も亦甚し。寫眞にて充分なり。例へば競馬場に馬が疾走する姿を現はしたりとて未だ動作の感じを與へず。單に事實の寫眞に過ぎざるなり。期する處は疾風の如くに飛び行くと云ふ感じを人に與へざる可からず。(つゞく)