寄書 對山樓だより

西松亮三
『みづゑ』第四十二
明治41年10月3日

 三山亭でふられ★氣妙な顔をして夕暮までに集まつて來た同宿人は二十三名で、之が定員四名の室へ押込られて居たが、誰れ一人不平もなく、無事に夕飯をすまして、電燈がつく時分になる江さんが上つて來て、どーぞ皆さんこの室は狹いから下の廣い座敷の方へ移つて下さいと云ふて來た御尤だと思ひつゝ一同が廣間の御座敷へ移つた、下の廣間は六疊が二間に拾疊が一間、物置が四疊だがこの物置は使はれぬ、合して二十二疊で、疊敷にするとまだこの廣間で疊一疊に一人たらずである。
 寝る前に頭の禿た御方が差し出て一同の初對面の挨拶があつたそれがすむとまた元の不言不語で、旅の疲れか一人へりニ人へりして間もなく皆がいとやすらかに漕ぎ出した。翌朝は赤い大きな蚊が蚊帳の中に飛んでいたのでか或は旅の朝寝も氣がとがめるのか、寝坊もなしに一同が裏の大佛の五時の鐘で目が醒めた。飯前に寫生に行く勉強家もある。朝飯がすむ、初日で皆が天氣よく會場へ出掛るが二人連は二組より見受なかつた、殘りは別々に、會揚を想像して行く者もある、先生方の顔を想像して行くものもある、兎に角重い道具を擔いで、女中のお早うお歸も聞き流しかたくなつて門を出て行つた。晝飯から皆が打とけ出した。之れから向ふ十餘日間は今日の事を日々繰りかやして居たので、何も書く事もないが、朝の早い者は五時頃で遲い者も同じく半時すぎには醒めて、顔も洗つて水貼もして朝飯を待つて居る、朝飯は宿の都合でか六時頃で、終る四五日前からは五時半頃に喰してくれた、喰ふとすぐ會場へ散り々に出て行く。晝は飯を喰ふて一時間ばかり休息して、指定の寫生地へそれそれ裏の蝉の聲にをくられて元氣よく出て行く。また晝疲をする者もあるが之れは極く少しで、する者は日々極って居た。夕は交代に湯あみて一同膳につく、すべて寝込むまでの數時間が實に吾等同宿者の一番樂しく且つ無邪氣に、老少の別なく和氣藹々として打ち解けて、晝の蒸し暑さを忘れるのである、この樂しさは第三者には想像にも及ばんのである、然し吾はこの樂しさを畫筆で感情を現するは容易であるが、文筆では口まで出て居るがよく書き現さぬ。蚊帳に這入つて半時間程は吉田豊君のハモニーカの美音に連られて皆が謳歌ずるが、いつか口の中で歌うて終る、あとはこのハモニーカの低い美くしき音が靜かな室に満ちて、雨戸をもれ込む細き長き月の光を浴びて安き夢路にさそはれる。
 會期中、當樓に茶話會が二夜と、廻り番の講話が一夜あつた、當合宿者の茶話會は話があつたが實行する折がなかつた。初の茶話會は盛んで餘興には例のオトウサンの講談、吉田君のハーモニカが三曲、澤田君の落語余の手足の藝等で拾時頃散じた。
 有名なオトーサンは、三日の夕三山亭から對山樓同宿者の親密を謀るためとの條件付で乗り込んで來たから、吾等は滿腔の熱血を濺ぎて氏を大いに迎へた、その甲斐あつて氏が滞在中に殘されし幹事の職分は、たとへ無形であつたけれど合宿者に代つて謝意を表しておく、また余が走り廻るに反して、君が座して隔意なく終りまで圓滿に同宿者諸君の親密を謀られし事を重ねて余も謝してをく。オトーサンの起りは、去年大阪で寄宿舎の元締であつたからで、また一名前韓國皇帝の稱を奉つたのは、君の顔つき髭の工合がドー見ても似てゐるからだとのことだ、今年も對山樓で一名奉つたが、之れは秘してをく。
 同宿者の別名は多くあつて、大低一人一人附けられて居たが、有名なのだけを書殘してをく、また思ひ出しても興味があると思ふから。田舎者、ハモニーカ、拾六枚君、洗たく屋、第一細君、第二細君、コワイ人、松魚、茶呑、コセ、狼、ヱーヘン等で、その中ヱーヘンは一時盛んに流行したものであるが譯を解するものは知る人ぞ知る。また女中の別名もあつて、なる江君が大佛、みさを君がハイカラ、つる江君の嫁さん、お清のヤスクニ、お好の煙草屋、外に二三人あつた。その中なる江、つる江、みきを君などは、なかなかよく終りまで嫌な顔もせずに立ち働いてくれた、ましてなる江君の心切、心情に至つてに、實に深く謝してをく、この外の失敗談や滑稽談等は自分の知れる限りでも色々あるがこのたよりはたゞ滞在中の輪廓だけに止めてをくまた面白き色は諸君等の方で塗つてくれるだらうと思ふ。
 書き落したが、滞在中誰やらが「對山樓では靴を見て飯を喰ふ」と評されたがこれは實で、初めから終りまで玄關で日々三度の食事を喰されし事を書き残してをく。
 終りに臨んで同宿者諸君の將來の健全を祝し、茲に同宿中余の職の至らざるを謝す、また宿主女中一同とも健全なれ。何日かまた來るこの會に再び相見む事を今より指折り操りて待つ。
(九月拾三日)

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