籠城日記

SO生
『みづゑ』第四十二
明治41年10月3日

 久振り四日間と云ふ、我に取ては最と貴き休暇を、寫生旁々避暑にと志州小濱に行きしは八月二十三日の正午頃大湊の宅を飛出した、スケツチ箱及衣類や紙、三脚、傘、を小さきものはカバンに押込みて、鹽合村に渡り、電車を二見に、腕車を松下村に捨て、又渡舟で對岸に、其れより丘を越えて小濱に着した、小濱は戸數は約百五十、東は海に面し他の三方は山にて圍む、宿屋は二軒あり、僕はその一に陣取りぬ、S君の父母來りて、盆中には宿に肴なければ、前以て用意したりとて、晩餐には尺餘の魚數尾を煮付に刺身に賞翫した、夜は盆踊りを見に行き歸りて床に入る、蚊は居らず、清風徐々と吹來り甚だ涼し、又水も良ければ、避暑には好適地である、且つ平常魚は飽る程あり、宿料もお話にならぬ程安直にて、冬は又至て暖かなる由なり。
 二十三日朝早くより目覺め、濱を散歩した、朝餐を終りたるころ、S君は三脚、手製の畫架等を携へ入り來る、僕も道具を揃へて居る内俄に雨降り出せり、追々東風烈しく加はり、家人慌てゝ戸を繰るやら拭布を呼ぶやら大騒動、中々止まぬ、室の戸は、殆ど閉切られ、僅か光を取る爲に、寸餘を剰すのみ、室内は暗く、何を爲す事も出來ず、其内少年一二訪來り、雜誌などを借りて、終日八疊の間に寝たり起たりして語る。
 二十四日今日は朝は晴れ居たるも、暫時の後降り出し、昨日に劣らぬ暴風雨なれば、手元の物を片端から暗き光にて寫し始めたれど何だか氣乗りせず、午後雨止みたれば、早速飛出し、S君と共に前の山に登り、半腹にて大強雨に出會ひ早々逃げ歸る、
 二十五日今日も前日の如き天氣故S君に花を取り來る樣云置たるに、軈て雨を侵して花持來る、其を寫し又S君を「モデル」として鉛筆畫を作り、午後雨止みたれば、はがき形スケツチ箱を携へ、近邊の谷合にて、小屋を寫すに、中途より又々烈しき風雨、畫は勿論、繪具もずぶ濡れにて、早々小屋に駈込みしに、其内には、魚肥等貯へある故、鼻持ならざれ共、やむなく小降を待ちて、下の寺の本堂に退き、降止む迄其處より四方を眺め、鉛筆を走らせた。
 二十六日重ね重ねの失敗に勞れしか、七時過る頃まで寝た、雨戸の隙より、明き朝日の光りが障子に映りし故、勇み立ちて戸を引開けしに、燦々たる光まばゆく、既に枯死せんとせし者が、更に新生命を得たる如き感じがした、早速S君を促して、仕度そこそこに、山を越えて網干す濱にと出掛く、急ぎ位置を定め、筆を執りたるに、漁夫數人舟を打揚げ、僕の側に來りて挨拶をなし、後に廻りて我畫を拝觀す、S君は暑きか海中に頭のみ現し泳て居る、汀には漁夫舟を洗ふ者、薪を運ぶ者あり、畫は不充分ながら出來上つたので、スケツチブツクを取出し、其等をスケツチしたる後、僕も衣を脱して海中に浴し、宿に歸りて晝食をなし、午後は「せぎ」と云へる所に至る、岩上の松の根元に小さき番小屋ありて、頗る面白し、何でも大なるものと思ひしが失敗の元、八ツ切にて二日間に仕上ぐる豫定にて取掛りぬ、
 二十七日最早豫定の休日を超過する事今日で二日、是非夕刻より歸らねばならぬ、然し一時間でも延し度い、朝は昨日の濱に行き、地藏堂を寫す、何時もながら思ふ樣に出來ず、それに砂上で照付けられる爲非常に暑く、中途で筆を措きて海中に入り、又筆を執たが、何うも思ふ樣に行かず、こてこて塗り付たが、益々ウルサき物になる、又畫を措て煙草を吸ひつゝ、數尺を退て見れば、捨るのも惜く、又取揚げて、何うやら斯うやら仕上げた、が矢張面白く無い樣な、又惜き樣なり、先づ此迄として晝食に宿に歸る。
 午後には昨日の番小屋を仕上げんと、暫く休息なし居たるに、今日歸ると聞き訪ふ者あり、又宿の小供や其連の子より、地藏祭の行燈の繪を描き呉れよと、終に折角囑望したる番小屋も仕上る事も出來ず、四時頃に愈々宿を出で、汗だらだらの惡き山路を越え、渡を越え蝉や蜩の音に送られつつ二見に著し、茶店にて休息せり、然るに二見は祭日の如く、近來珍らしき人出なるが、其等は皆宿なき爲山田町迄引返すとの事にて、電車も甚だ敷繁昌せり、僕は暫く休みて其處を出で、一里程の暗き松原及野道をS君と悠々我家に歸れば、留守に出水して、家は恰ど床を浸したそうだ。

この記事をPDFで見る