眞正の繪

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

芙蓉生
『みづゑ』第四十三
明治41年11月3日

 詩人武島羽衣氏は曾て『眞正の歌』といへる一文を雜誌「さほしか」に寄せられた、詩歌も繪畫も其目的は殆と同じである、羽衣氏曰く
 「歌は新古を以て其優劣を論ずべきものではない――巨勢金岡や狩野元信の繪はむかしの繪である故に今日は何の價値もないといふことは言へぬ――新派だからよいの舊派だからわるいのなどいふ事はあたまから言ふべき理はないのである」
 其通りである、時代時代によつて畫風に隆替はあるがよき物はいつの時代でもよいので、眞の傑作は時代を超越した物でなければならない。
 「歌のよしあしを定める標準は――萬人を萬人ながら感動せしむるやうな歌、これが實によい歌である、眞正の歌といふべきである――歌の目的は要するに人を感動させるにある――この感動といふこと感激といふ事を標準となす時は、あやまたず歌の眞贋是非を甄別することが出來るのである」
 見て何等の感興の起らぬ総は美術的繪畫ではない。眞正の繪は筆者の感情を看者に其儘感ぜしめねばならぬ、否時としてはより以上の感動を與ふるものでなければならぬ。
 「如何にせば人に感動を與ふることが出來るか――第一に感想を正直にあらはすといふ事で、自分の感じたことを作らずかざらずうちあけて吐露するといふ事である――酒も飲めぬに酒一斗詩百篇といふやうな事をいつて見たり、馬にも乗れないのに駒ながら何々するといふやうな歌を作つたりして、心にもないそら言を歌ふ弊がある、不正直の傾がある、是では人を感動せしむるやうな歌は出來ぬ」
 正直の描寫は繪の第一義である、不正直即ち不自然は繪畫の上に於て最も避けねばならぬ要件である。
 「鏡は中に影を投ずるものをさながら寫す――歌人は鏡のやうな心にて天然自然に向はねばならぬ、小兒は何事にても眞正直に感する、歌人は小兒のやうな心をもて天然自然に向はねばならぬ――即ち眞心もて歌を詠めといふことである――眞心といふものは國の東西、時の古今を論ぜずことことく同じである――眞心は共通である――空間と時間とにょりて差異をもたぬ人情の極致を歌へといふ事になる――見せかけなる皮想の感想をさけて正味の感想を歌へといふ事になる」
 自然の皮想を摸せしのみにては眞正の繪ではない、小主觀を去つて極めて無心に無邪氣に大なる自然に對すべきである。
 「第二の條件は感想を具體的にあらはせよといふことで、事物の有樣が目に見ゆるやうにあらはして歌へといふ事である。花といふことを歌ふにしても、たゞ一般に花の觀念を歌つてはならぬ、必ずやある特別な花具體的な花を歌はねばならぬ――具體的にあらはされた事物は判然と姿をうかべる、したがつて感動を與へることも著しいのである」
 物質の表現は眞正の繪には缺くべからざるものである、物の硬軟、乾濕等が充分現はれねば人に感動を起さしむることは出來ぬ、單に森といふよりも何の木の森といふ方が印象が明らかで隨て感動を深からしむるのである。
 「道理といひ理屈といふことは抽象的のものである――理屈をとやかくとしるすと乾燥無味になつて何の感興もうかばぬ」
 あまりに理屈詰の繪は決して人の感興を惹くものではない。人の顔を描くに解剖學上、この中には骨が出てゐるから、眼には見えないが是非凸く畫くものだとするのは間違ひである、理屈に拘泥しては眞正の繪は出來ない。
 「第三には深き感情を歌へといふ事である――種々なる感情それ等は悉く歌つて差支はないが、そのうちで最歌ふべきは深き感情である」
 繪とすべきものは種々ある、何物か繪にならざらん、然しながら、それ等をたゞ描き出せばとてそれは眞正の繪といふことが出來ぬ、生命あり精神ある深い感情を現はしたものでなくてはならぬ。
 「最後には新しい見方で歌へといふことである感情の極致は古今を通じてかはらない、さればたゞあたりまへにあらはしたならば誰が歌つてもかはりはないけれどもあたらしい見方で歌ふ時には絶えず人の感與を惹き起すやうになるのである」
 眞正の繪に於ては其觀察が陳腐ではいけぬ、常人の注意を逸する點に大なる美を見出すことがある。
 要するに、眞正の繪は、自然の現象の外面的描寫ではなく、其感情を新しき見方により、深く具體的に、且僞らずして現はしたるものであるといふことに歸する。
 如上の解釋には多少の異論もあらうが、兎に角此心をもつて繪に對すれば大なる間違はないことゝ思ふ。

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