色彩應用論[九] 自然界の現象

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榕村主人
『みづゑ』第四十三
明治41年11月3日

 自然界の現象自然界の絶えず變化し行く美麗崇高な現象は畫家殊に風景畫家が畫題の珍として措かざるものである。かゝる消散し易い現象を描出するのは、宛も人の感惰を畫面に表出しやうとするのと同じて、甚だ困難の業である。實に自然界は單調なもので、この變化し行く現象がなかつたならば、宛ら肖像畫に感情の麗はしい影がないのと同一で、冷い屍骸の如きものである。
 自然界の變化し行く現象を研究するのは、甚だ大切なるもので、例之ば太陽の如き、旦に東海に上り、夕に西山に搗くその間に、空氣雲、濕氣等に及ぼす變化は千態萬状であつて、加ふるに四季折々の景色に色彩の變化を與へるのである。
 風景畫に於ては一日中の時間を明に示さねばならぬのが通則であるから、一日中に變化し行く雲の形状等を研究する必要がある。朝の如き、日出の前後共に、雲の形状及色彩に依つて示される。また雲のない時は、空の曉色や丘陵の頂きのみに光線が見えて、平原には霧が現はれるので分明である。日中は影の方向、反射、炎熱閑寂等に依つて分る。夕方は雲の色が麗はしく變つて、所謂黄昏の景となる。猶ほスケツチブツクを閉ぢないで、筆を走らすべきものは、雨雲の襲來の如き、白雨、虹、雷鳴、電光、暴風雨等擧げて數ふべくもない、これ等の現象は其當時に寫して置かなければならない、記臆などは餘り益に立つものでない、これを寫生しないで描くときは誤謬が起り易く識者の笑を買ふのみである。
 雨が降つて居つて太陽が地平線上にあるときは半圓の虹が現はれる。レツドが内圓の最高色で、外圓のがヴァイオレツトである。サー、ハンフレー、デーヴイーの『サルモニァ』に虹と雲の色との事が書いてある。もし雲が赤くて、日没の際西方に紫色を帯びるときは、翌日は晴天である。此理由は空氣が乾燥であれば赤色を多く屈折せしむるからである。銅色或は黄色の日没は雨を豫報する。しかしこれは月暈ほど確乎ではない。また古諺に、『朝虹は牧者泣かせ、夕虹は牧者の喜び、』とある。虹は雲が雨を含んで日に面した時に限るもので、夕虹は東に朝虹は西に現はれる。火の光輝も亦畫趣のあるものである。家屋或は稻村等の俄然燃出でた時などは、雲に暖い光輝を映ずるものである。秋晴の埃燒く煙等、風景に趣きを添ゆるものである。鐵道の機關車が吐出す水蒸氣が廣く擴がつて空中に散るときに、朝日または夕日に照されると、甚だ美しい色を呈する。
 雲は水蒸氣の一團が地上に浮遊して居るのであることを心得て置かねばならぬ。で雲の上方は丸く、下方の表面は多く偏平であつて、雲が濃密で不透明であれば光線を反射することが多く、隨て影も多いのである。
 雨雲は種々に變化する。静かな日にこれを遠方に見るときは、雨は輕羅を隔てゝ見るが如く濛然と地上に並行線に降る、微風があれば稍傾く。更に風の如何に依つて種々變化する。山地の如きは屡雨があつて、わたりが暗く、雨雲が立塞つて物の形が見分かず、景致の組立を寫すことも出來ない。海邊では暗い暴風雨の雲が電光等がなくとも崇高と壮大の觀を添えるのである。
 電光を描出するには、實際に目撃した通りの形状方向等を以てするより外に仕方はないのである。で風景と電光とを同一瞬間に見ることは出來ない、電光の爲に觀者の眼は眩まさるゝので。ターナーが『デイール、ハーバー』の畫中に電光を宛もリボンの如く巻いて波打つた形に描いたが、其當時これに就ての講論が盛に起つたことがあつた。アラゴーは電光を三種に分つて説いて居る。第一は一道の光輝が一直線に直下する、薄くきわだつて、白、ヴアイオレツト、紫の色を呈して、時とするとぎざぎざになり、或は二本になることがある。第二は、ぱッと火花が擴がる。色はレツド、ブリユー、ヴアイオレツトで、前者の如くに活溌でない。一般に雲の稜で起るものである。第三は一團の光が數秒時續くもので、前進の運動をするものである。
 雲と雨とを措いては霧が頗る趣味のあるものである。空氣の遠近が明かで、陰陽が減じ、細微の部分が減じて畫面の厚みを増す。
 雨の趣を描かうといふには、畫面全體に純粋な鼠色のワツシをする。雨天の日は乾きが遲いものであるが、全く乾くまで待つてよろしい。最初の調子は全然中和色で、紫色に傾かぬやうに注意してほしい。コバルトブリユーとインヂアンレツド、アイヴオリーブラツク或はライトレツド、それからアイヴオリーブツラクかインヂゴーとインヂァンレツドとエローオークル等がよい。このワツシをした爲めに前景の緑や其他の色が榮えない時にはその部分を乾いた筆か布で拭取るがよろしい。濡れた地面や光る草等の趣を出すには彩料を充分に筆に含まして描くがよい。
 日没の際には色彩に限りない變化があるが、日出の色彩は沈靜で單調である。
 日没には冷い夜の影が全景に溢れて居るが、光線の反射が空や雲に名殘を留めて居るので景色を和かにし温みを添えて居る。畫家及哲學者の言ふ處を聞くと總じて、朝の調子は夕に比して鼠色で冷いといふ。素より時としてこの反對の場合もあることはいふまでもない。夕景を描くには最初インヂァンレツド、とローズまたはパープルマダーとコバルトとで全體に塗つて、インヂゴーかアイボリーブラツクとフレンチブリユーとマダーとのワツシで色を強くする。かくすると落付いた調子が得られる。日光の殘光で空に暖味を帯びて居る處は殘してワツシをするのを忘れてはならない。
 月光もまた頗る趣あるものである。實に月光を浴びた諸物を見ると身宛ら他界にあるの感があるが、これを繪とするには大いに忠實なる觀察及び研究を重ねなければならない。
 月の光力は太陽のそれと比較すれば數十萬分の一に過ぎない。ものゝ二十五ヤードと離るれば人の顔は見分けが附かない位である。
 月夜の趣を描かうといふには、餘りに冷いワツシや全體のエフエクトを暗くするのは面白くない。畫面全體が公平に暗ければ、力のない繪となつてしまう。であるから先づイシヂアンエローのワツシで初まるが可い。さもなくばインヂアン・エローとインヂァン・レツドと混じてする。第二にはインヂアンレツトとインヂゴー或はセピヤとインヂゴーと少量のクリムゾンレーキを交へる。時にはインヂゴーの代りにフレンチプリユーを用ゐるも可い。建物の調子はセピヤ、ブラヲンマダー、もしくはパープルマダーとフレンチブリュー或はインヂゴーを混じで描く。影にはヴァンダイクブラオンとインヂゴーと少量のレーキとである。或はパープルまたはブラオンマダーとインヂゴーとでする。草木の緑はブラオンピンクとインヂゴーとクリムゾンレーキかパープルマダーとで描く。(完)

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