尾瀬沼

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

大下藤次郎
『みづゑ』第四十四
明治41年11月18日

 今より十四年程前、雜誌太陽の第一巻一號に、利根水源探險記があつた、一行十餘人で利根を溯り、藤原村より渓流を歩し、大困難をして一大平原の上に出た、それは尾瀬ヶ原で、遙かに一湖沼を見たが、それが尾瀬沼である、そして其湖畔に小屋があつて、岩代と上野との住人が物貨の交易場に宛てられてある、會津檜技岐よりするも、上州戸倉よりするも、何れも五里程あつて、無人の境、風光極めて佳絶であると誌してある。
 私はこの記事を讀んだ時より、その尾瀬沼を是非探つて見たいと思つた、そして會津方面の人に逢ふ毎に、地勢を問ひ、順路を問ふた、そして其答ふる處は、地圖の上では國道があるが、實際は僅かに細径の通ずるのみで、それすら夏は人よりも丈高き草に掩はれ、冬は十餘尺の深雪に其道の所在さへ知れぬ、そして山道十里の間人家もなく、一夏僅かに十數人の往來ある程故、トテモ都の人の行き得べき處でなく、よし徃つた處で野宿をせねばならぬと、誰れからも粗ぼ同じ樣な答を得た、然るに雜誌山岳第一年第一號に、武田久吉氏の尾瀬紀行がある、これによつて見ると、野宿といふても小屋があるらしく、戸倉から準備さへしてゆけば、大なる不便なしに滞留することも出來そうに思はれた。次に中村文學士の「旅ころも」を讀むと、同氏は友人と共にこの街道を通つて檜枝岐へゆかれたのである、その記事で見ると、湖沼は大したこともないが矢張景色は立派なやうである。
 欧米の畫家はよくテント旅行をやる、そして研究のために人跡無人の境にゆくことは珍らしくない、吾國ではあまりこのやうな事はしない、數年前、吉田中川兩氏が日光赤薙山の炭燒小屋に泊まつて寫生された事があるが、東京から食物や寝道具迄も携帯して徃つた譯ではない、私達の今度の旅は兎に角前例なき大仕掛なものであるといへやう。
 私は湖水が好きだ、去年日本アルプスの渓谷上高地迄徃つたのも、實は宮川の池を見たいからであつた。その前年は、會津磐梯山の裏に秋元、檜原等の湖水をたづねた、地理學者のほかその名さへ知らぬ尾瀬沼は、畫家未到の地で、さぞかし景色のよい處であらうと思ふ、今年はこの方面に遠征を試みて見やうと考へた。まづ、群馬縣利根郡片品村役場に宛てゝ照會状を發した、その返事に、尾瀬には小屋がある、修繕したら雨露を凌ぐことが出來やう、戸倉にては米鹽の用意は出來る、人夫は得られるといふのであつた。更に前橋なる根岸文吉氏に手紙を出す、根岸氏は丸山晩霞君の知人で、植物採集のため時々尾瀬地方へゆくとの事である、根岸氏からは早速返事があつて、丁度高山植物をとりにゆくから、歸つたら報告するとの事、かくて七月初旬根岸氏は來られた、その話に、尾瀬にゆく道は極めて惡路で、途中まだ雪があつた、小屋は檜の突出しに大林區署で作つた人夫小屋があつて、これは役に立つつもりである、食物は戸倉にもあるけれど、米はトテモ食へぬ、沼田から送らせて置く方がよい、人夫は平生なら一日一圓位ひで幾人でも得られるが、七月は丁度養蠶の多忙な時であるから、まつ倍賃金も拂はねば六づかしい、沼田の宿屋は恵比須屋、追貝では淀屋、戸倉では玉城屋、何れも一泊五十錢位ひとの話をされた、これで要領を得た、早速同行者を募つた處、第一に森島君が賛同し、夫から赤城君八木君と同勢四人になつた、出發は七月十二日と極めて、沼田の宿屋へ爲換を送つて、戸倉迄上等白米八升と醤油一瓶を送らせた、そして吾等は旅行準備にかゝつた。
 食料として携帯したものは、ハム四斤、鰹節一本、砂糖、氷砂糖、佃煮、梅干、煎り豆、菓子、辛子漬、鳥貝、福神漬の類、藥は寳丹、ゼム、マラリヤ豫防のキニーネ、バンソー膏、固膓丸、ハブ草エキスの類、日用品としては提灯、マツチ、蝋燭、小刀、石鹸、インキ、紙、筆、油紙、細引、懐爐の類、衣類は冬シヤツ、ズボン下、手袋、襟巻、腹巻、眞綿、蚊防具、毛布、枕、外套草鮭掛足袋の掛がへ等を重なるものとし、他は通常旅行に要する品々を用意した。
 出發五六日前に、同行者を集めて尾瀬沼會を開いた、そして携帯すべきものゝ分擔方法、並びに旅行中の種々なる注意をした、その注意の重なるものは、食物、特に生水を飲まぬこと、列を離れて單獨行爲をとらぬこと等である。
 豫定通り十二日朝出發、同夜沼田へ一泊、十三日は追貝へ、十四日に漸く戸倉へ着いた、爰にて携へし食料のほかに蕎麥粉二升を用意し、十五日尾瀬湖畔の小屋に到達した、山小屋は先年信州地方で見たものは中々完美したものであつたが、尾瀬の小屋は如何にも憐れなもので、少しく用意の不充分であつたのを知つた。我等の宿營地は海抜四干餘尺の地で、標高七千八百餘尺といはるゝ燧ケ岳の麓にある、周廻三里の山湖、これを尾瀬沼といひ、宿舎を去ること僅に二丁、風光極めて明媚極めて幽静である。
 こゝに止まること五夜、その間出來るだけスケツチをした、あまりに材料の多いので、落ついて二三枚の繪を造つて滿足して歸る事は出來ぬ、よいと思ふ處は一つ殘らず畫いてゆきたい、一日に七八枚も寫生した時もある、高原に咲いてゐる花ばかり集めて畫いても、一月や二月の畫材に苦しむことはない。
 六日目にこゝを去つたが、此上留まるべき時日と用意のないのが如何にも殘念に思はれた、私は出來ることなら此地に完全な小屋を作つて年々來て研究したい、そして世の風景畫家に此地を紹介したいと思ふ、旅行中の有樣は、次項尾瀬日記に就いて承知せられたい。

この記事をPDFで見る