イースト氏寫生談 畫題の選擇と描法

石川欽一郎イシカワキンイチロウ(1871-1945) 作者一覧へ

石川欽一郎
『みづゑ』第四十五
明治41年12月3日

 畫題の撰擇と描法
 風景畫家の本分は他の美術にては現はし難き自然の美を尋ね出して之を人に見するにあり、我が畫きたる自然の風光を見ば、自身も樂しみ人も亦樂しむものなることを信ずるなれども、眞の畫家は他人が見て何んと思ふかは問ふの要なし、大作は常に世の賞賛より先きに在りしこと既往に徴して明らかなる如く將來とても亦然かあるべきなり。
 畫題の撰擇と云ふことは作畫の當初より起る問題なり、何程美しく畫けたりとも其畫に崇高なる詩的又は審美的の趣味なきに於ては、極く高き標準より論ずる時は之れ失敗と云はざるを得ず、畫家が自然の裡に好畫題を尋ねんとするとき、他の美術家も亦繪以外の方法を以て自然の美を表はさんとするものなるを知らば、畫家は畫として表はすに極めて適する畫題を求むべきは正に當然なることを悟ると共に、之に依り終に大成を期すべき充分の確信を持たざる可からず、已に畫家には詩人音樂家が自然を表はすよりも別の方法ありとすれば、其間の優劣長短は敢て問ふの要なく、只だ彼此の差別を知りて畫家としての權限を究むること肝要なるべし、去ればとて畫家は文學的の畫題を擇む勿れと云ふにはあらず、只だ單に文學的情致を現はさん爲に畫く可からずと云ふにあり、須らく文學的の感想に配するに、色彩と形状との興味より來る新意義を以てすべきなり。
 此理を悟らば、如何なるものを自然より撰擇すべきかは凡て畫家の自由なれども、只だ畫に表はすに最も適したるものゝみに限ることを忘るべからず、又た撰擇と云ふことも、其畫題中の物を悉く畫かば錯雜を來たすを免れざれば何れを畫く可きやと云ふに、同一場處を數人の畫家が畫くとするも、出來上りの結果は皆同じからず、之れ各人が面白しと感ずる點の異なるより起るものにして、何れの畫も結果は自然に似たりと雖も相互には少しも似たることなかるべし、同じ畫題を撰定するにも、人にょりては朝の景を以て好しとするものあらん、或は晝或は夕と各自の趣向は異なるべし、故に要は其塲處に最も適する光りの時期を取りて畫くにあり、自然は種々なる塲合を示し之が撰擇は畫家の勝手たる以上は、其畫に失敗するとも他に責なし、中には自然の最も面白からざる有樣を取りて畫けるもあり、之も自然を表はしたるには相違なきも、撰擇を誤まりて畫として不適當なる塲合を表はしたるものと云ふべし、されば是等に充分注意したる上にて畫題を撰擇せざる可からず。
 畫として適當なる畫題は畫の條件に適ひ畫の範圍に合するものにして、且っ他の藝術よりも獨り繪畫にて之れを現はすを最も適當なりとするものたるべし。
 又た畫題は其特徴を最も好く現はす状態に於て之を撰定せざる可からず、且つ又た畫題の特徴を一層引立たしむる要素は何んであるか、又た引立たしめぬものは何んであるかをも考ふべきなり、自然の造詣は測るべからず、見たしと思ふものは何にても其中に見るを得べし、故に自然を單調と見る畫家もあれば複雜と見る畫家もあり、或は細部分までも見て一々之を分解研究する者もあり、或は只だ大體の箇處のみを見て賞するものもあり、自然の簡易なるに感ずるもあれば其複雄なるに驚くもあり、此等の中にて天才とも云はるゝ畫家は蓋し自然の大なる箇處を見る人ならん、人心を感動せしむべき畫の要素は即ち之れにて眞膸は茲に存す、畫家が自然の大なる箇處のみを見るようになり、又た其畫の各部分の關係を正しく畫き得るに至れば、茲に作風顯はれ來るべし、然れども景色に只だ一時的に見る面白き有樣を採つて畫題と爲すは不可なり、此の如きは往々失敗の基たるを免れず、又た遠景の寺塔とか櫓とかを入るゝが爲めに大物を畫かんとする人も往々あり、併かも其塔や櫓が大なる畫面中に只だ一二寸位の大さに過ぎすとすれば此畫は終に徒勞に歸せざるを得ず、要するに我考案を助長するに足るものこそ畫として面白けれども、此目的に伴はざるものは如何に見て美しゝとも遂に無用のものたるに過ぎざるべし。
 畫を作るに當り、音樂若くは詩にて現はすが可なるものを畫題と爲す可からずとは巳に述べたり、畫家が自然に對するに當りては先づ其崇高壮大の感に打たれざるはなし、尤も此感は詩歌音樂よりも受けらるべきものなれども、それにては未だ盡さゞる處を畫にて現はさんとして、自然に就て此目的に叶ふ畫材を求めんとするに、中々容易に見當らざるのみか對照面白きものを見出すこと中々困難なりと雖も、已に我が考案成らば耐忍して適當なる材料を一つ々々集収し、如何にも實際自然に見るが如き眞状を觀者に與ふるが如くに之を綜合することを得べし、之れ風景畫の★義なり、畫家は元と天才に依るとするも、尚ほ且つ奥妙の域に達せんとするには百方練磨し自然の妙致を深く研究し、必要に應じて自由に變更を加へ得る位に我確信を得るに至りて初めて到るべし、青年畫家寫生に際し尋ぬるに、彼處の木は誠に面白く畫に適すれば、あれを捕へて此處に在る此面白からざる木と取換へても差支へなきやと問はゞ、無論差支なしと答へん、之れに對し禁止の令あるにも非らざれば、之れを畫に植替へるに於て何の苦情有るべき筈なしと雖も、唯此植替へたる木が自然に其塲處に生へたるが如く見えざる可からず、日向も日影も地上の影も凡て誤りなく、描法も亦他の部分の如くに確信を以て畫かれなば、茲に觀者に快感を與へ興味を起さしむべし、人は往々名畫の畫かれたる場處に至り其實景に親しく接し、畫は其場處の感じを能く現はせるものなることを目撃すれども、併かも實物の各個に就て見る時は、畫とは大に相違せるを認むべし、此の如きは遥々實地探★に來れる人に對しては氣の毒なれども、畫の感興なるものは必ずしも自然實景の如何に依らず、之れを畫き現はせる畫家の手腕にあるものなることを悟るべし、之れを美術の徳とも謂ふべく、畫家は我意の儘に自然を使役する權能を附與されたるものなり。
 畫題の撰擇は元とより重要なれども、妙作は必ずしも畫題の如何に依らず、寧ろ其現はし方に依るなり、例へばヴエニスの景は寫眞にて見るも中々美しけれども、併かもターナーの名作たるヴエニスの風景と比較せば全く顔色なしと云ふは、ターナーは自然の壮麗なる美趣を更らに引立てゝ描出したるが故にして、自然にては鄙近麁野なるものも此大家に手にかゝれば忽ち壮嚴美麗のものとなるなり、畫家が自然に對する各自の感興に從ひ、畫題の現はし方の異なるや論を俟たず、且つ之れが爲め作品に各自の畫風も現はれ、固有の獨徴性格を發輝する所以ともなるなり。

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