寄書 旅行日記の一節

夏目生
『みづゑ』第四十五
明治41年12月3日

 村の杢さんが入營とかにて古びた明笛に紙張の太皷村の小哥達調子怪しく夜更くるまで打ち鳴らす喧がしさに碌々夢も結ばれず心地あしきに曉方より打揚ぐる煙火の響は家もゆるがんばかり吃驚して蓐より這ひ出づれば宿の婆さん「貴下まだ早う御座んすお就蓐て仰在れば可御座んすのに」圍爐裏の傍に屈まり怪訝顔して此方を見返へる。
 朝飯すまして軒端に出づれば、白霧迷々として山々を蔽ひ、幕れ行く秋の肌寒さは勇に泌むばかり、家々には朝炊きの烟薄く靡きて、又何處よりか時を報る鷄の聲も聞ゆと見れば遠く山の端に二旒の旗を先に立てゝ續く大勢の人影は大方見送りの人々と首肯かれたり、今日も空模様あしければ吾は部屋に閉籠りて畫の修正にかゝりぬ。
 頓て晝餉もすみて庭に立ち出づるにフと眼に入るは幾條となく縄に結びて屋根につるされたる百目柿なり、聞けば日々三四度は之れを揉むなりと、億吾は是を耳にせぬ前に喰ひたかりしよ、其の他苔蒸したる屋根囀り合ふ名も知らぬ山鳥、遠近に刻む水車の音、藪越しに聞ゆる悠長な牛の鳴聲、さては野良に聞ゆる娘の鄙唄、總て都に馴れたる眼には見聞くもの仲々に興あり。山寺の鐘もの哀れに殷々と響き渡る其夕、さりげなく椽側に立てば、宿に隣れる馬小屋の側に、年頃十七八、新らしからぬ白地の手拭を被り、盲縞の筒袖を着たるが、面相も艶麗花を欺くまでには至らねど、鄙には相應はぬ乙女の、朋輩らしきに泣きっゝ語るあり、要らぬ事ながら好事にも本蔭に寄りて窺へば。「昨日刈入れを了へるまで野良で行く末の事など樂しく語り合ひし懐かしい杢さん、愈々明日の入營で、今朝は遠い都の空へ旅立つとか、さらぬだに忌はしき繼母の嫁入話、噫思へば寂しい二歳の月日を妾はどうして暮そう、げに人の世の寂寥を一人で脊負て立つやうな氣がする今朝も甲府まで送らんと門に出づれば女郎の癖にと荒々しく母上に呼び止められ、先の婿殿へ濟むとか濟まぬとか、噫亡き母だに坐せば斯くも徒なくあるまじきに、我子の雪さんばかりは人の影口叩く程愛しみつ勞りつ、臺所の仕事一つもさせず、それに引替へ妾には迚も辛抱のしきれない樣な仕向け、二口目には厭な顔をするとか、碌に返辭もしないとか、繼子根生が突張てるとか、折に觸れ物に托けては出て行けがしの虐待それも杢さんの慰藉によりて寧そもうとまで思つた事も胸を撫でゝ我慢もせしが、せめてもの恃みとせる父上はよからぬ道に耽りて家を外の道樂三昧、寄る邊なき身の遣る瀬なく思ひ詰めては寧そ死んで……」
 と言ひ淀んで萎然と俛首れた。
 今し野良婦へりとも見ゆる籠せおいたる女の頬かぶりしたるが語らひつゝ來るに、氣付きて慌てゝ姿を匿しぬ。
 翌日の旦、軒端の清水に洗物せる宿の老婆に「お早うゴイス」と頓狂な聲を浴びせかけられ、今更氣の付きし樣に「いゝお天氣でゴイス」俛首れしまゝもの思はしげに鬢ほつれを掻ひなでながら行き過ぐるは、昨日見し果敢ない乙女・・・・あはれ今御嶽山麓の田圃に彼女の俤を見る事が出來るであろうか。

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