ラスキンの山岳論(山岳會第一大會講演)

小島烏水コジマウスイ(1873-1948) 作者一覧へ

小島烏水
『みづゑ』第四十六
明治42年1月3日

 今日は山岳會大會の第一回で、私は其第一席でありますから、實は何か特殊の山岳の事に付いて細かい御話をしやうと思ひましたが、第一席のことではあるし、况して第一日のことでありますから、山岳概論、さう云つた性質のものが宜からうと云ふのでの、ジョン、ラスキンの『近世畫家論』の中の山岳論に付て、少しく清聽を涜さうと思ひます、此ヲスキンの名著は諸君が多く御愛讀になつて居られるであらうと思ひます、さう云ふ御方には一向新しく無いことを申上げて、甚だ恐縮でありますが、暫く御詐しを願ひたいと思ひます。
 其前にジョン、ラスキンと云ふ人の略傳をちよつと申上げて置きます、此人は千八百十九年、日本の文政二年に倫敦に生れました、それから千八百四十二年二十四歳の時にオツクスフオルド大學を卒業して、其翌年ラスキンが二十五歳の時に有名な『近世畫家論』の第一卷を著はしました、それで一躍ビクトリヤ王朝最後の文豪の列に這入りましたがその後も頻に名著を續出しまして、ラスキンの文界の位置が定まつた、四十六歳の時にラスキンは阿父さんに死なれた、此阿父さんは却々商業の上手な人であつた爲に、死なれた時には土地家屋其他で百六十萬圓の財産を遺されました、其時分の百六十萬圓は金の方が高くて、物品が廉かつたから可なりの富と言つても宜からうと思ひます、それからラスキンが五十三の時に又阿母さんに死なれた、ラスキンと云ふ人は其時分にはもう細君が無かつたので、子も何にも無い、そこで親譲りの財産と云ふものは、美術品を購入し、又秀才の教育費にするとか、或は大學に寄附するとか、勞働者の組合に投ずると云ふやうなことをして残らず蕩盡して仕舞つて、一文も自分の手に殘さなかった、詰り皆な美術保護とか、育英資金とか公共事業に寄附して仕舞つたのであります。千八百八十九年から千八百九十九年まで、此十年間はラスキンの晩年になつて、さすがに氣力旺盛の人も、すつかり耄碌して仕舞つて、實世間から全く遠かつてゐました、千八百九十九年、即ち明治三十二年はラスキンの八十歳に當りましてその誕生日には、英國の皇族は固よりオツクスフオルド大學、倫敦ラスキン、ソサイヱチイ其他有らゆる名士が集つて此世界の文豪の爲に盛大なる祝賀をされました、而して其翌年千九百年の一月十八日にラスキンは格別病氣もせずして、八十一歳の高齢でポックリと枯木のおのづと折れるやうに死んで仕舞ひました、それでラスキンが生前の希望に依つて蘇格士蘭に葬むりました、蘇格土生れで有名の小説家ウラルター、スコツト、彼の人の半身像の建つて居る前にラスキンの銅像が建つて居ると云ふことを聞きます、先づ簡單にラスキンの一生涯を述べると是だけであります。ラスキンが二十五歳にして『近世畫家論』第の一卷を著はして以來、五十年間と云ふものは有らゆる藝術社會、又實社會に渉つて著述をし、講演をしました、山、川、湖、水、寺院、建築、繪畫、彫刻、音樂、經濟、教育、詩、文學、歴史、神話、社會學、道德等の諸問題に亘つて洪水のやうに説教を浴びせかけました、その著作が八十幾種と云ふものがある、極小さい折に觸れての著述は數知れないほどてあるが、纏まつた著述がそれだけある、そし孰れも名文であります、其中今日取出して御話をしたいのは、自然の風景、殊に山岳美を讃嘆せられたことで此一事に付ては、世界に於て恐らく今まで前に人無く、後に繼ぐ者があらうとも覺えずと云ふ勢ひである、で、ラスキンが何故山が好きであつたかと云ふことを御話するに付て、ラスキンの性行を前以て少しく御話をして置きますが、ラスキンの生れたのは前に述べた倫敦でありますが、系統は純然たるスコツチ中のスコツチである、阿母さんが蘇格蘭人、阿父さんも蘇格蘭人である、蘇格蘭は御承知の通り、英國に在つても山水明媚の郷で、昔田園詩人としてバアンスなどゝ云ふ人が出ました、それから後ウヲルター、スコツトあの『湖上美人』で有名の詩人が出た、ラスキンは夫等の先輩の感化を受けて居ると見えて、非常に子供の時分から「自然」が好きであつた、ラスキンの阿父さんは七十九歳阿母さんは九十歳、ラスキンは八十一歳で死んだ、實際敦れも高齢であつた、而してそれはラスキン一家の系統が長壽を保つ方であつたからでぜうが、少くとも、ラスキン一人にあつては自然を好み、又藝術に非常に趣味を有つて居つた爲に、長生をした、と言はれないことはあるまいと思ひます、どうも株屋や、裁判官、辨護士銀行員などいふ商賣では、あまり長生をする者が無いやうであります。
 ラスキンが、子供の中から山岳が好きであつたと云ふ例を御話しますと、丁度ラスキンが四歳の時にローヤル、アカデミイの會員で、ノースコートといふ人に肖像を描いてもらつた、ノースコートは可愛らしく畏まつてゐる小兒に向つて、後ろの景色は何にしたら宜からうと云ふとラスキンは青い山が宜いと斯う答へた、何しろ、四歳の小兒であるから、偶然に出たのかも知れぬが、何となく將來の運命を豫言したやうに思はれる、十歳になつて阿父さん、阿母きんに連れられて例の大ナポレヲンの敗戰で有名なウオーターローの戰場へ旅行に往つた、十歳のラスキンは其時分既に文豪としての芽生へを示してゐたから、忽ち感じて、詩を作った、其中に斯う云ふことが言つてある、記憶に殘つた儘を申しますが、ヴオーターローの戰場には戰沒將士の紀念塔がある、佛蘭西軍にも聯合軍方にも建つて店る、其紀念塔と、後ろの山とを少年のラスキンが比較して、「人間の建てた山と云ふものは、一寸法師みたいな紀念塔だ、自然の作つた紀念塔と云ふものはあゝ云ふ山である、」ちよつとしても自然崇拜はこの時分から其氣があつた、所が十四歳の時に阿父さんが一粒種のラスキンを、エライ者に仕立てたいと云ふので、金の有るに任せて始終旅行に連れて實物教育かして歩いた、そのとき瑞西へ始めて往つた、ライン河を渡つてブラツク、フオレストを通過して、瑞西に往つた時、ラスキンは始めてアルプスの雪を戴いて店る景色を見て躍り上つて非常に喜んだ、ラスキンはアルプスに四十何回か旅行をしたが、この十四歳の時に初めて高山の雪を見て印象を與へられた程深く感じたことは後には無かつたと言つてゐる、この事は、晩年に著はした「プレテリタ」といふ自傳に書いてあります。十五歳のとき、博物學雜誌に地質上の一論文を投じたところが、其雜誌の主筆が、阿父さんに手紙を寄せて、あなたと、私とが、目を瞑るころに、お子息さんは大立物になりますよと、言つてよこした、併しそれまで待つには及ばなかつた。
 それから今の『近世畫家論』第一卷を公けにした翌年五月、ラスキンが二十六歳の時に、瑞西に第五回の旅行を試みた、其時はアルプス中の最高峰、モンブランと、その氷河を研究した、其時日本で謂ふ剛力、向ふで謂ふガイドでクーテツトといふ老人が案内をした、この老人はラスキンの手を取るやうにして自然の觀方を教へた、ラスキンは此人に仕込まれて、餘程岩石や、氷河や、其他山の雪のことを研究したのである、後にラスキンは畫家を對手にして繪畫の議論をする程であつたから、随分繪も自分で描いた、就中岩石、氷河などの繪は、專門家の到底及ばざる程の智識を有つて居たのであるから、技倆も殊に秀れてゐた、其翌千八百四十五年『近世畫家論』第二卷を著はす前に、最う一度モンブランに觀察に往った、其時まで、自分は詩人にならうと云ふ考であつたが、どうしてもラスキンの思想は、韻文といふやうな窮窟の鑄型には入られない、やはり得意の散文で、天然の美を描寫するに限ると云ふ考へを起した『近世畫家論』第二卷が出てから、又アルプスに往つた時に、斯う云ふことを感じた『心を純潔にし、考を嚴肅にするには、實に宇宙間、山に若くものは無い』といひ『明日はモンブランに向つて、眞ッ直に馬を向ける樂しさを思へば、心臓の鼓動を覺えない』と言つてあるラスキンはワーズワースと同じく、雪解の水を愛し、シヱレイと同じく、碧い空が好きであつた、ラスキンはこのやうにして屡ば瑞西へ往つた、餘程瑞西の山國が好きであつたと見えて、一時は繪入の瑞西の歴史を作らうとまで思つたが、『近世畫家論』の續稿とそれから其他色々の著述が出ました爲に、到頭腹案の儘で葬むられて仕舞つて、さう云ふ本は出さなかつたのである、此外にも腹案の儘で世に出さずに了つた本は、澤山有つたと云ふことでございます。(つゞく)

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