圖按法概要[五]圖按の應用と智識

比奈地畔川ヒナチハンセン 作者一覧へ

比奈地畔川
『みづゑ』第四十六 P.10-11
明治42年1月3日

 大古蒙昧の人種でも亦如何なる邦國にあつても、他の藝術に先つて模樣意匠の樣なものが發達して居るのは其揆を一にして居る、勿論未開の人種にあつては、一般の智識がそれ等のものに鷹用するところも極めて幼稚拙劣なものであるけれども、兎に角自己の身邊を飾るもの、日用の什器武器等には相應の装飾がある、無論干篇一律の紋様を配置してあつて、色彩なども極く單純なものが多い模樣としても曲線の應用よりも直線が多く、自在畫的よりも幾何學的になされたものが多分を占めて居る、或はまた自然その物を其儘採つて直ちに應用したものがある、植物の花とか葉とか果實などをそのまゝ應用したるもの、又た獸類の毛皮牙角などを用ふるのである、是等は時に意表に出てゝ今人の目にも珍奇の感がせぬではない、兎に角一種特有の能力を發揮して居る、これ等は各人種の特質、土地、習慣、氣候、宗教、迷信、生活の状態、交通の如何等によつて自然に異なるのである、それが人智の發達や交通の如何によつて非常な發達と推移とを來して、其時とを比較すれば應用の範圍も實に廣大して、精巧なるもの、貴重なるもの、或は簡便なるもの、繊巧なるもの等實に非常な勢力を以て増加し來つたのである、故に昔時の舊套を墨守しては居られぬ、ましてや商工業の發達は實に偉大な關係を圖按に及ぼしてる、換言すれば圖按の善悪巧拙によつて工藝品の商業的消長にまで關係する有様となつた圖按に對する智識の程度といふことも亦考へなくてはならぬ事になつた。
 さて圖按に應用せらるゝ資料は何が最も廣く應用せらるゝやと問はゞ、誰しもそれは自然そのものであると答ふるに躊躇せぬものはあるまい。
 然り自然に相違ない、今更ら自然の感應自然の効果を解く必要はない。
 圖按が應用せらるゝ大部分は自然或は自然を資料として、それ等の形状、或は色彩を模倣して一ツのものを形作るに他ならぬ、自然が如何に一般の藝術家に與ふる効蹟の無量劫なるかは到底筆紙などのよく盡す處でない。
 然れども、圖按は决して擅まゝに空想に愬へて氣儘に筆端に表はせし處の繪畫とは違ふ、これは前項にも述べた通り、特種の美術であるが故に、其製作上の智識に鞏固なる根底を定めて按を立てなくてはならない、そしてその智識と技能を養ふには絶對に自然の觀察と學科との研究に相應の修養を積まねばならぬ。試に泰西の圖按教育法なるものを見ると實に到れるものである、それは繪圖の研究(油畫等)と同じくデツサンの素修を作るのである、それほ石膏人體の研究に數年或は十數年を費し、並びに動植物の特質の科學的研究解剖色彩學の研究等に根底を作り十年數十年の間に之を盡すといふのである、然も各専問の圖按家を養成し、一事一物に付ての圖按をどこまでもやるのである、日本の樣に印刷物の圖按も、染織物の圖按も、乃至磁陶金属木工等の圖按迄も一の考按者が按出するやうなことはしない、無論近時の日本もそれ程ではないけれども、泰西のそれよりは一層專問的に非常な精巧珍奇なるものを得んとしつゝある、たとへ美術的の圖按にしても工業的の圃按にしても、同一の手によつて完美なるものを得んとしてもそれは無理な注文と云はねばならない、一體日本には今でこそ二三の專問に圖按を教育する學校もあるけれども一般にあつては徒弟的に技術者を教ゆるが故に、僅かに我が師が技術の模倣によつて、あるものを得んとしつゝあるが故に、到底非常の天才にあらざる限りはより以上なものは出來ないのである、一體何の藝術でもさうであるけれども、技術者の品性なるものは必ず一作物の上にある面影を傳へる、即ち個人性なるものが表はれる、それが自然作者の腦中に高雅優麗な氣韻を有して居らなかつたら、必ずその作品は目にこそ美くしくても到底價値あるものとは云へない、また必ず立派なものは出來ない道理である、故に圖按家は頭腦を使用すると同時に、頭腦を養成しなくてはならない、智識を應用すると、同時に品性を高くしなくてはならない、非凡なものは非凡なるものがあつて初めて出來るのである。(此項未完)(禁轉載)

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