ナシヨナル、ギヤラリー

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

汀鴎
『みづゑ』第四十六 P.20-22
明治42年1月3日

 ロンドンのNational Galleyといへば巴里のルーブルと相對して世界屈指のものである、希臘風のくすんだ建物見かけは壮大ではあるが美麗ではない、併し一度其内に足を入れたら、たゞたゞ茫然となるばかりで、アメリカで有難がつて見た古畫や、所謂英國人の作品といふものが今更馬鹿らしき迄に思はれた、こゝにある古今大家の作二千、それに對すると自分は畫家であると今迄よく人の前で平氣で言へたものて、自分の小なることがつくづく感ぜられる、少さいなら未たしも自分の存在さへ疑はれる、さればそれ等の名畫を批評するなどは思ひもよらぬことで、その好惡さへも二度や三度見たのでは言ふことが出來ぬ、こゝにはたゞ自分に忘れがたき深き印象を與へたものを少しく紹介することにする。
 畫堂見物にはモー馴れたもので、先づ入口でカタログを求め、番號の順序によつて巡つた。此畫堂は年代と流派とによつて區別され、歴史的に陳列されてあるため見てゆくのに甚だ都合がよい。第一室より第五室はタスカン初期のフレミツシ派の繪で宗教畫が多く、金色の光耀いたものもある、Antonio pollalouoloのセント、セバスチアンの殉教といふ繪は、稍高き樹の枝の上に縛されて立てる裡體の壯夫を圍みて、六人の射手が銘々弓を手にして射殺する圖で、其作の良否よりも其畫かれし事柄の惨酷なるには再び見直す氣も失せた。第六室にはアンブリアン派の繪がある、やゝ大なる室で、こゝには十五六世紀の大家の作が澤山ある、畫聖Rapharlの作も五點までも掲げてある、自分はラファエルの作については内心非常の尊敬の念を持つて居らなかつたが、今此畫堂に於て“Madonna degli ansidei”に向ふやあらゆる婦人の美德を湊合して成れる愛の化身マドンナの像に對して、自から頭が下つた、繪であるといふことさへ覺えぬ、况んや其枝巧色彩などは此際批議し得べきものでない、只々大なる感に撲れて恍惚たるのみであつた、聞く處によれば此繪を買入れる當時は十二萬磅の評價があつたとの事であるが、今は何程價格にや恐らく知るものはあるまい、かゝる貴重品は金錢にて其價を定むべきものではあるまい。畫聖の他の作のうちてはSt,catherine of Alexandriaが忘れがたく思はれた。同じ室にMichael Angeloの繪がある、それは眞筆でないかも知れぬとの疑ひの符號がついてゐるが、自分にはラファエルの繪程に感を惹かなかつたGlovanni Dattista Saloiの“The Madanna inprayerといふ繪も目に殘つてゐる。
 次の室にはべネシヤンスクールのPaolo veroneseやTitianなどの美事なる作がある、ベニス派は色彩を以て他に優るもの、取わけチヽアンの繪には其精華を發輝してゐる。
 第十、十一、十二の三室には、和蘭派とフレミツシユ派の繪でRembraudt,Rubens Vandyckを始め風景畫にはHobbema.Riusdael等の佳作が堂に滿ちてゐる、ルーベンスの作には極めて大なるもの多く、色彩の艷麗と其搆圖の自在なるには驚嘆せざるを得ない、こゝにある物のみにて三十餘枚を數へられる、それが皆十疊敷程もある大作で、其達者なことは他に及ぶものはあるまい。レンブラントの作も多くあるが、就中老婦人の肖像は有名なものだけあつて、活々として今にも語り出しそうである、曾てボストンで見たDr Niclas夫妻の肖像よりは一層活躍してゐる。ヴアンダイクの作も大きいものばかりで、圖柄に變化は乏しいが何となく高尚な色が多い。ロルイスダエルの風景畫には水車溪流瀧等が多く、調子の落ついた處は敬服に耐えぬ。ホペマのMiddel harnis並にJan Vangoyenの山水畫等孰れも立派な作で、今日の風景畫の基をなした人達の筆と思へば、其製作以外に慕はしい氣もされた。
 

ロンドン、ナショナルギャラリー

 第十四室には西班牙の繪がある、ヴエラスケスの作ににヒリツプ四世の肖像畫多く、叉西班牙提督Purido Parejaの肖像は傑出したもので場中特に光彩を放つてゐる。ムリロの繪にはSt.John and the Lamleが人の注意を惹いてゐる。
 第十五室は日耳曼派の繪で、HanoHalbeinが代表者である、其正確なる筆致は尊敬に値する。
 第十六十七室の佛蘭西派の繪のうちなるClaud Lorraineの風景畫は、十七世紀の作としては感嘆すべきもの、ターナーの如きも此人より學んだ點が多からうと思はれる、此室にはなほ注目すべき作が多い。
 第十八室より二十一室迄は英國古代より近世迄の繪畫で、コンステーブル、コツプレー、ゲインスボロー、レイノルヅ等の他國では見られぬ大作が澤山ある。レイノルヅのThe Infant samalkncelhng at Prayer 其可憐な様子は、生涯忘るゝことの出來ぬ深い印象を興へられたSir Thomas Lawrenceの婦人の肖像の優しさ、何を見ても驚くべきもの計りである、レイノルヅ先生といへば最初の美術院總裁で、生徒を教ゆるに理屈誥のヤカマシイ事を言ふ教育家で、手腕は大したものではあるまいと豫想してゐたが、今度親しく其製作に接して、此人の理論と實際と相伴ふてゐることを知つた。次にSir Edwin Landseerは有名な動物畫家であるが、其獅子のスタデー二面は殊に深き感動を起さしめた。Gains beoughの作は二十四枚あつて、孰れも大作、其人物畫は親むべし、風景畫には一種の形式があつて、今日の眼から見たら物足らぬ點も多いが、叉學ふべき處は尠くない。John Croomの風車も美事な出來である。
 第二十二室はターナーギキラリーとの表札があつて、廣き室内は氏一個人の作で充たされてゐる、大作八十余枚、孰れも陸籬れる光彩を放つてゐる。自分は白状する、初めて此室に入つた時に呆然として何を見てゐるのか判らなくなつて仕舞つた、天才にあらざれば天才の作は解し得ぬものであらうと思つた、日本に居た時寫眞版や三色版で、ターナーの色がドーの感じがドーのと云つたるが今更耻かしくなつた、それと同時に、自分等と一しよに其作を親しく見もせぬくせに、ターナーを品騰してゐた人達に一度見せてやりたく思つた。奇警なる自然の觀察、想像も及ばぬ其輕淡にして美はしき色彩、不可思議なる描法、何處を捕へて感心してよいのか、素養深からぬ身で初めてターナ驚の大作に接して、それがよく解されれといふ人があつれらそーに自から欺くものであらうと迄思つた、憩ふにかゝる繪は看者の觀賞力に比例して其美術的價値を増すべきものであらう。階下には猶ターナーギヤラリーの第二第三の室がある、此處は皆水彩畫のみにて、スケツチやらスタデーやら大小六百餘點の多数が蒐集されてある、密なるもあり粗なるもあり、何れを見ても氏の才筆と勉強の力の偉大なる事が覗はれる、世人はターナーを以て大なる天才なりといふ、併し此大なる天才は實に又大なる勉強家であつた事を忘れてはならぬ。
 これにて國民畫堂の梗慨は盡きた、このやうな大畫堂はいつ迄見てゐても又何度見ても飽きるといふ事はない、此樂園に朝夕自由に出入し得るロンドン市人は何といふ幸福であらう。

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