寄書 誤解
TK生
『みづゑ』第四十六
明治42年1月3日
水彩畫を見て、五十になる人と五十六になる人との間に、こんな會話が交換された
「フーム俺達の時分には畫なんて事はチツトモ習はせなかつたものだが今ぢや何から何迄學校で習はせるんだな」
「そうさ、今はモウ何でも西洋でね、畫でも昔は墨でサラサラとかいたんだが、西洋の畫は全で寫眞だ、ツマリ本當の樣に見えればよいので、筆の面白味だの雅だのといふ物は少しもない、ダンダン是で進むで行つたら風流氣なんてものは、マルキリ無くなつてしまふだろうよ」
「だけど、是で重寳だ旅でもしていゝ景色が見付かつた時等は之を習つて置くと寫眞器なんて要らない」
是は今起つた事實である僕は何とも言へなかった。