ラスキンの山岳論[二]

小島烏水コジマウスイ(1873-1948) 作者一覧へ

小島烏水
『みづゑ』第四十七
明治42年2月3日

 〔二〕是から今私の度々申上げた『近世畫家論』と云ふ本の御話をする順序になつて來ましたが、是は最も必要のことであらうと思ひますから、少しく詳しく御話をします、ラスキンが丁度十二三歳の時に他から本を一册貰つた、其本はロージヤアスの『伊大利』と云ふので、それに那翁の古戦場の繪が這入つて居つた、繪を描いた人はターナーと云ふ畫家であつた、其挿繪を見て、ラスキンが非常に惚込んだ、實に良い繪だと思ふとラスンキの腦裡に、ターナーと云ふ畫家が非常な印象を與へました、此人はラスキンの子供心にも、天下に匹敵無い大美術家と映つたのでありました、所がターナーと云ふ人の繪は、其時にどうも世間の評判が餘り良くない、世間の人には大きな畫家である事を殆ど知られない、でラスキンが丁度十七の時でありましたが、ターナーに就ての研究が餘程進んで居つた時分『ブラツクウツドマガジン』といふ雜誌に、ターナーが出品した畫を、糞味噌に汚なしつけてあつた、ラスキンは自分が信じて居る、寧ろ崇拝してゐる美術界の偉人が攻撃されて、餘り感心せぬ畫家クラウドとか、プーサンとか、ヴアンデヴイルドと云ふ畫家が、第一流の大家と見られて居るのが、いかにも心外で堪らぬ、所へ持つて往つて今の攻撃があつたので、是は自分が蹶起すべき時であると信じて、『ブラツクウツドマガジン』に對する痛酷な辯駁文を書いた、其辯駁文は、非常に烈しいものであつたが、世間に公にされなかつた、これは事實上『近世畫家論』の第一章であると、白分で言つてゐたほどで、後に全集に収められました。それ程ラスキンはターナー崇拝であつた、尤もラスキンの外に分つたのか分らぬのか知れぬが、ターナーの繪に同情を寄せる者は馬車屋の隠居が一人あつた天下にこの二人しか無い、それからターナーの天才を紹介する爲に、ラスキンはどうしても一文章を書かなくちやアならぬ、但し唯だ好きだから褒めるのでは無い、シッカリした理由を根底に置いて、その上に建てられた研究の結果を發表して、是から世間に時めいて居る畫家を薙倒して、ターナーの眞價を普く世間に知らせやう、斯う云ふ考があつたのが、『近世畫家論』を著はす第一の動機で、第二の動機は其時分餘り自然殊に山水氣象を世間の人が了解されない、のみならず最も自然を忠實に研究すべき筈の畫家が山岳を描いてあるのを見ると、ラスキンが抱腹絶倒に堪へない事がある、一例を舉げると、或畫家がアルプスを描いた所が、實に杜撰極まる描寫がしてある、山の雪も、平地に落ちた雪も同じく無差別になつて居る、又雲の峰と、ホントの山岳を識別する事が出來ない、で、誤認の結果、實世界に存在する筈のない、滅法に高くて、奇態千萬な山岳を拵へて、得意でゐる、と云ふやうな有樣である、山の傾斜にした所が十八度が精々二十度の角度に描くべき筈の山を、五十度の險しい角度で描き、そして高さは測量を絶してゐる、斯う云ふやうなイカサマ者でアルプスの雪山氷山の美と眞とを穿つことは到底出來ない、ラスキンはそれを見て随分高名なる人が斯う云ふ雲の峰と本統の雪の山と間違へた描き方をするやうでは、根本の白然といふものから、第一に説法してかゝらなければならぬ、それから又一方に於て畫家が山を描くのを見ると、遠く山を描くには山の線を柔かにして、山の傾斜をぼんやりスカシて居る、ラスキンの考へはそれと正反對である、成る程遠い山の線は柔かに見えることもあるけれども、一慨にさう言へない、のみならず、晴れた時は遠距離の山は决して柔かに寫らない、遠く往けば往く程山の形が却つてナイフのやうな硬い輪廓になる筈である、何故と云ふにラスキンの觀察に依ると、山には色々の植物があり、それはが集合して色々の森林になつてゐる、あれは何の木、是は何の木と云ふことが近距離では分る、勿論二里か三里位遠くなると何の植物と指名は出來ぬが針葉樹か濶葉樹ぐらゐの見當は付く、さう云ふ見當の付く間は山が柔かい感じがするが、兎に角、段々遠くなると、植物岩石等の區別が分なくなる、それで色々の植物や、固まつた岩石やが合體して、それが一つの嵩となつて其山の輪廓は剛々しい、それを畫家先生は何でも遠い色はかう近は色はかうと、同一の色調を使つて遠山は柔かく、近山は硬いと極めて描く、それがラスキンの氣に入らない、尤も日本のやうな、水蒸氣の多い山では遠くなればなるほど、空氣がぼんやりして見える山は概して柔かく描いても差支へがない、併しそれにしても秋と冬とは太平洋方面は乾燥するから、必ずしもさうで無い、此頃五月の山は矢張り遠いほど寫りが柔かに見えるやうであるが、アルプスは氣候が違うから、乾燥の具合も違うし、全くラスキンの觀察した通りに見えるのかも知れぬ、それで畫家教へざるべからずと云ふ積りで、ラスキンは千八百四十二年の秋から冬に掛けて、執筆したのが『近世畫家論』で其一節一章が出來上ると非常に親孝行の人であるから阿父さん阿母さんの前で讀むで聞かせる、さうすると兩親は涙を流して、能くお前は斯う云ふ觀察をして、又斯う云ふ事が書けるやうになつたと言つて非常に喜んださうである、其内に軈て『近世畫家論』も脱稿した、其時ローヤル、アカデミイの會員、ジヨーヂ、リツチモンドに白分の肖像を描かせたが、後ろにアルプスのモンブランを負ひ、自分は鉛筆を持つたまゝ、デスクに凭りかゝつて居る所を注文した。餘程山は好きであつたに違ひない、愈々『近世畫家論』の第一巻が脱稿して、世間に出すことになつたのだが、ラスキンはまだ前に申します通り、二十五歳の青年で世間ではジヨン、ラスキンの名を知る者が無い、自分は相應の自信があるやうな者の、また至つて謙遜の人であつたから、うつかり名前などを出して物笑ひになつてはならぬと云ふので、故意に名前を隠して「オツクスフオルド」の一卒業生と匿名で出した、始めは「ターナア及び古人といふ題であつたが、書肆の注文で改題したのである。其本が出ると、實に英國の藝術界は震動した。ラスキンの文章は「言語の繪畫」と言はれるほど、彩色と感情があつて、一言すると―――少壮時代の文は―――眩美的,に輝く、英語のIluminating(イルミネーチング)といふ評は動かないところである。
 扨此本で風景畫と云ふものは、自然本統の眞實を再現しなければならぬ自然の法則を無視して拵へてはイケないと云ふ證を舉げて、ターナーを九天の高きに揚げて、其時分得意であつた先生方を奈落の底まで突落した、其時世論の沸騰は、恐らく東京市の選舉騒ぎ位では無かつたらうと思ふ、餘程騒ぎが酷くて、ラスキンは八方から敵を受けた、ラスキンは議論なら負けない、自分一人で孤軍奮闘、大勢の敵を引受けて花々しい論戦をやつた、所がオツクスフオルドには餘程の曲者が居る、二十五歳の名も無い若い者とは、誰も思はなかつたが、それと聞いて世間で驚いた、それでラスキンの名が高くなつた。(つゞく)

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