イースト氏寫生談 外光派[上]

石川欽一郎イシカワキンイチロウ(1871-1945) 作者一覧へ

石川欽一郎
『みづゑ』第四十七
明治42年2月3日

 大なる畫を全然戸外にて仕上げると云ふことは其可否に就き從來中々講論のある處なり、外光派と稱する一派は右の主義にょり現れたるものなるが、之れには一理なきに非らず、風景畫は漸く型に容れたるものとなり、只だ傳來の描法を墨守するに過ぎずして所謂畫室臭きを免れず、之れを外氣に觸れしめて新生面を開く要あり、外光派は幾分此目的を達したりとは雖ども、時に其手段が稍や突飛に走るの嫌なきに非らず、さはあれ其短所も舊派の技巧的なるに比し優ること數等なり、今や畫家は年來の惰眠より覺めてコンステーブル其他の大家の作に自家獨有の造詣あるを見て悟る處あり、かくてうまれたる此新派の畫風は、一朝にして世の承容する處とならんは或は難しとせんも、美術とても亦他の人文の發達と相伴ひて益々發展すること難きに非らずと爲し、即ち農夫を外光中に立たしめて、光線の關係を實際見ゆる通りに描寫して明暗の關係色彩の致趣を直接感ずるが儘に研究し、風景畫家は大なる畫幀を戸外に搬出して現場に於て自然と相對して之れを畫く、去れば此方法を以てせば果たして自然の清新なる風致即ち光彩の感興を能く捕へ得るやと云ふに少しく疑なき能はず、無論自然の風光を捕へ得るには相連なかるべしと雖も、之れに成功するの日は未た遼遠なりと云はざる可からず、此方法に於て危險なることは、一瞬間の光景を寫さずして變化し行く光線に何處までも釣られ行くこと之れなり、戸外にて仕上げたる大なる畫は徃々光線の關係が曖昧にして顧疑せる跡を認むるものあり、此弊を除かんことの困難なるは、つねに目前に現はるゝ光景を畫かんとするが爲め今は日影となれる部分も五分時の後には日向となれるに氣付かず其時刻に畫く部分の光線は自然に違はずとするも他の部分との關係は誤を來さゞるを得ず、此困難を除かん爲めは毎日僅少の時間に於て光線の變らざる内に畫き、其時全體の調子に誤りあらば之れを修正し且つ仕上げまで此調子を違へざるやう爲すにあり、尤此方法とても色彩の關係を滿足に仕上げる事は保證し難げれども、畫中の大なる各部分の關係は先づ誤なき寫生を得べし、甞て某外光派の畫家が林檎の花を畫かんとし、未だ滿開せざるに早くも畫に着手し、いつも花に先んじて畫かんとしたるが思ふように花が畫けず、種々苦心して自然の變化に連れて修正し行きたる結果、其内には花は散り青葉茂り果實るに至り、終に其畫の完成したる時に畫題を付けて曰く「林檎取り」と。又は單に色彩のみを主とする畫を作らんとして寫生する内に、俄かに雨が降り來りて一端屋内に避け雨晴るゝに及んで再び出掛け見るに、色彩は全く變化し前に畫かんとしたる時の如き面白き光景は終に認む可からず、かゝる困難は大なる畫を直ちに戸外にて寫生せんとすとき徃々あるべし、只だ畫面小なれば取扱便利なる故困難も稍や尠なかるべし五尺六尺の大物を戸外にて畫かんとするときは先づ畫題とする場處が急に變化せぬことを能く慥むべし筆を下すに當つては目を半ば閉ぢて自然を見れば其大部分の關係調子を能く認むることを得るものにて、之れを誤らずに筆を大きく畫き、明暗の外形を熟視して憶せず作らずして之れを畫くべし、此場合には細部分には拘泥すべからず、唯大なる部分のみを見て、一團の物の外形は叉た他の一團の物の外形を作くることを心に留むべし、即ち木の外形は空の明るき外形を造るが如し、畫くべき物の釣合を極簡軍に見て最も目立つ二三の要處を捕へるにあり、即ち最も暗きは樹木、最も明るきは空、中間は草等の如し、尤も之れは唯大體に就ての談なれば畫題により一樣ならずと雖ども、要するに先づ現はさんとする明暗の調子を手早く寫取ることにて、細部分より筆を下すことは出來ざれは大なる筆法にて光線の變らぬ内に大體の關係を取ることを爲すべし、之れは成るべくは一遍に爲すを可しとす。
 若し地面を全部畫き終はらざれば、其一部分にてもよし、以て其露に生へたる樹木との濃淡の關係を確かに現はすを期すべし、空とても亦同様なり、只だ速かに變化する光景は之を少しも見逃すことなきやう爲ざる可からず樹木の枝は其形状を正しく畫かんよりは今は寧ろ正しき色の調子を取るを專らと爲すべし、之れ形は何時までも殘れども色は忽ち變化するを以てなり、
 大なる畫に着手するには、先づ其前に之れを能く研究し且つ種々異なる光線の下に比べ見ること肝要なり、大なる畫に最初より着手し、中途にて光線の關係は寧ろ他の時間に於ける方が一層面白かりしことを發見すること往々あるなり、故に之れが研究に費す勞力は毫も損にならず、反つて充分に畫くべき有樣を考究するを得尚且つ自然に就て大に悟る處あるべく、畫の各部分の關係をも能く了解するに至るべし、又は彌々着手する前に繪具にて小さきスケツチを幾枚も作り、又た鉛筆寫生をも爲して形状其他を能く研究すべし、決して無用の骨折にはあらず、充分の耐忍を以て爲すべし、之れは本畫に着手するに當り其成功彌々確かならしむるものにして、本來は斯く研究の結果最早仝く記憶にょり畫くを得る程に至らざる可からず、尤も之れにては實物寫生とは云はれざるべしと雖も、寫生の利益は我確信を得んが爲めにして此確信は自然に就ける智識より來るべし併かも此智識は深き自覺にょりて得たるに非らざれば何の甲斐もなきことを知るべし。
 偖て彌々本畫に着手するに於て只だ色彩の關係を正確に畫くを第一とし、描法の如何には一切搆ふ可からず、色彩の關係調子が自然と相適應するは、音樂に就て云へば恰も適當なる調子の鍵盤を打つが如きものにして、色彩の調子が自然と同一の關に出る時は之れ手が適當なる鍵盤に鰯るゝと同じ、若し一調子低き鍵盤を打たんには他の調子も共に下げて凡て一調子つゞ下げゆくことも得るが如く、例へば自然の色彩は之れを最高の調子と爲すべし、日中太陽の赫々たる光景の如き到底繪具にては現はし難き高調なる時は、畫には之を稍中音の調子に引下げ、此調子に準じて他の色彩の調子も同様引下げ行くも可なり、只だ自然に於て明暗の相違が四分六分の關係を現はすに於ては、畫の明暗の度も亦四分六分の相違を現はさゞる可からず。
 此場合には仕上げを顧慮するの要なく、只だ簡單に其釣合を現すにあり、之れは成るべく強き調子を元とし、各部分の色彩が關係を誤らず能く相融和するに於ては、畫より數歩退き眺れば如何にも能く自然の儘を寫し得たるを見るべし、之れ遠くより眺むる時は、細部分を尋ぬるの要なく大體の調子が自然と毫も異らざるが故なり、寫生中は决して仕上げを急ぐ可からず、唯全體の關係を捕ふるを主とし細部分に拘泥す可からず、凡て單純に勢ひよく且つ自然の儘なるやう心掛くべし、憶することなく又た急ぐことなく、何程遅しとも决して心配するに及ばず、技術上には之れ誠の進歩なり、拙作と云ふは腕の未熟と云はんよりも寧ろ急いで仕上げ不充分の観察を爲すより來るものなり、愼重に筆を下し、要處々々を熟察し、明暗の調子確りと捕へ、色彩と色彩又た物の形と形との關係を誤らず、樹木は枝の趣を能く現はし、前景は色彩豊かに變化し、且つ筆致により其物質を想見せしめ、一點一劃皆意味あるべし、畫面に色を着けるは之れ物の形を畫くことなれば、運筆は色彩の正しきと共に形も亦正しからざる可からず、此の如くにして畫は漸々出來上り終に最後の一筆を以て其畫は完成すべしとも、併かも之れ自から仕上がれるものにして敢て仕上げんとせしにはあらず、仕上げと云ふは元と之れ自然を深く究めて、其調子釣合等が相綜集積せるものに外ならざるなり。
 自然を畫に現はすは畫家の個人的性質にょり多く變化するものにして、若し畫家が自然の小部分の如何にも美麗なるに感じて之れを畫き、其結果は從來かゝる小部分の景を好める畫家ならば充分面白く上手に仕上ぐることならんも、之れが單に細々と面白いと云ふことの外其畫に更らに深き含蓄なきに於ては之れ有害無益なりと云はざる可からず、何事も大なる處を目掛くべし、大なる處には面白き細々したる處は自から備はれり、細々したる處は之れ從にして主にあらず、自然に於ても畫に於ても凡て同樣なり、唯全體の釣合に應じて誤りなきやう此細部分を現はせば可なり、若し然らずして細部分のみに拘泥せば、如何にそれが美しからんとも反つて其爲めに全體の大部分に對する觀察を誤るに至らん。

この記事をPDFで見る